4.知的作業と搾取される労働の分割を乗り越える交わりあい

 

北川 ビフォはヒューマニストだと思います。ですから、けっこう先端技術の話をする人ですけど、でも人間らしいところをすごく大事にしているなあってほんまに思います。人間の自由というか、そのような力、ポテンシャルをすごく大事にします。ナイーブな人間中心主義とか、そんなんではもちろんまったくありませんが、いまのこれだけアカン社会でも人間が変革できる余地はあるって言いますし。現状、労働や技術システムの歯車になりきれない、その全体主義に完全に組み込まれない、いわば人間的な要素が、例えば鬱(ウツ)のような形で現れていると思うんです。でもこうした力、自由については、ネグリやメッザードラもちょっと形は違うけど、オペライスタ、アウトノミアの系譜にいる人たちはみんな強調してます。

 

杉本 なるほど、そうなんですね。

 

北川 あ、それにイタリアの左派の活動家に会うと、「メッチャ自由やな」って思います(笑)。

 

杉本 根付いちゃってるんでしょうね。やはり日本にいるとどうですか?違うなという感じはありますか。

 

北川 そうですねえ。

 

杉本 学生さんとか?

 

北川 ああ、学生ですか。学生はおもしろいですよ。もっと授業が少なくて、あと本人たちも思ってるでしょうけど、やっぱり就職に費やす時間がもっと少なければいい。授業、課題、サークル、バイト、夕方から公務員講座。もう下手をしたら、その辺の会社員より忙しいでしょう?

 

 就職への圧力ですよ。なんと言いますか、首にナイフ突きつけられている状態ですね。やっぱり奨学金というか、借金がある。借りてる学生は多いんです。だから逸脱ができない。遅れられないというか、無駄ができない脅しになっている。端的にこの奨学金って、学生の未来からカネを略奪する仕組みですから。そう考えると、どっちが前借りしてんねん、って思いますけど。親しくしてた学生で、バイトして自分で授業料払ってたんですけど、「これ以上授業料が高かったら、大学来れませんでした」って。人によって違いはありますけど、授業より就職が大事ですって言われたら、現状の仕組みじゃそらそうでしょう、と。借金ある、賃労働が必要だと。もちろん授業というか、研究はやってほしいです。就活ちゃうねんし、社会の「役に立つ」とか社会への「提言」とか言わずに、メッチャわがままにやってほしい。ただこんな仕組みなので内定が決まったら、今度は就職までに資格を取っておいてとか言われるわけです。ひどすぎ、無償労働か?

 

 日本社会の大学はよくも悪くも、労働市場とずっと接続されていたのかなと思います。でもいまは接続というより、もはや下請けです。しかも授業料が高い下請け。大卒免許学校。でも、大学自体がそういう環境を積極的につくってきたのも確かでしょう。学生の研究や教育を「人材」育成って言うてますから。つまり労働力。就職率がどうとか。人と話せたり、面接とか、就職活動が苦手だった人も当然いるし、そこで嫌な思いをした人たちもいるのに。就職しなかった人は、まるで大学にとってよくないことをしたような目線というか。いい「人材」じゃないと。大学はこういう学生が一番自由でいられる巨大な隙間の時間、場所であってほしいんですけどね。まあ大学も企業みたいになってますからね。ほんとうに国にお金というか、財布を握られ、その紐をかたくされると。国の言うこと聞かナ、国からカネが減らされる。だからそれに従わない教員は、大学から何かしらの罰則がありますとか。全体としてそういう方向に進んでしまう。

 

杉本 率直な思いを語ってもらいましたが、北川さんが思うことは、他の研究者の方からも聞きますね。

 

北川 私立大学に務める友人が言ったんですけど、大学自治とか研究の自由とかそういう理念をすぐ持ち出して抵抗とか言うけど、現状理念の戦いが起こっているわけちゃうぞ、と。カネの計算だけだ。そうなると国にカネを握られている時点できつい、と。国に財布を握られたら自治はない。

 

 現状、これは企業ですね。あえての極論なんでしょうけど。あとね、自治とか言うと、学生にはちょっとエリート主義に聞こえるのかもしれませんね。今もありますけど、大学教員の権威主義とか、そういうのは問題なんですけど、今はもっとそれだけじゃないというか。これまた極論かもしれませんが、借金抱えた学生からすれば、正規雇用、無期雇用で給料もらっている大学教員は、「敵」にみえるかもしれません。さらには自分の授業料でカネをもらっているとみえるかもしれません。だからある意味では、溝はどんどん深くなっているのかな。大学教員が戦争とかそういうテーマに反応しやすいのは、この溝というか、階級的現実を見なくて良いからなのかも。どうなんやろ…。まあいずれにせよ、こうした状況で学生とどんな関係を築けるか。

 

杉本 ほかの先生のお話を伺うと学生さんは真面目ないい人たちがいると思うんです。センスがいい人もいると思う。ただ回収される世界がね。いまの世界に回収されたらまずいでしょう、と思うわけです。何らか問題意識が高くなるというか、素直に考える力があると、どんどん社会の間と溝が深くなっていけば、現実認識が厳しくなる。そうすると社会に呑み込まれることができない。「個」として頑張らざるを得ないというのかな。だって普通に喫茶店で「いや、この世の中はさぁ」という話になるわけじゃないじゃないですか?何か良く分からないことを言っている人という扱いになってしまう。

 

北川 うむ。

 

杉本 そうすると了解できる範囲のサークルの中でしかこういう話ができないんじゃないか。そのあたり、イタリアとかはどうですか?伺ってみたい気がするんです。

 

北川 それは限られたところでだけ終わっていないのか、限られたところで終わっているのか、ということですか。

 

杉本 日本は後者だと思うんですね。どう思います?

 

北川 まあそうですね。例えば、労働の拒否とか、コミュニズム、アナキズムと最初から大文字で考えるとそれは難しいでしょうけれども。それも大事ですけどね。でもやっぱりさっきの話で言うと「仕事イヤだな」とか、「現実から逃げ出したいな」というような感覚というのはきっとあるはず。恒常的にはなくても時にはあるのでは。いや、もっともっとあるかな。世の中の仕組み、リズムに、自分の身体や精神がはめ込まれている中で。だから現実にまだうまく表現されていると言えないひとりひとりの人間の中の苦悩や欲求とか。苦悩というとちょっと簡単な色を付けすぎて嫌なんですけど。

 

 なにが言いたいかというと、自分の経験が出発点というか、自分が主語で語れる話でなければダメだと思うんです。最後は。物質的な、リアルな争い、敵対ってそこからだと思います。それは些細なことでいいと思うんですよね。悲惨なことじゃなくても、重大とみなされないようなことでもいいと思います。世界の悲惨に比べると大したことないな、とかはいらない。そういうところを軽視したり、失ったりしてしまうと、今ではそれこそ極右とかの大言説に飲み込まれちゃう気がします。自己肯定というか、擬似的でもあるけど実体とも言える集団性を何かしらいちおう担保してますから。

 

 日本社会の場合、一般的な政治の領域と、そうしたひとりひとりの欲求の領域が、ヨーロッパとは比較にならないほどずれている、断絶しているように感じるんですよ。それは対抗的な運動の政治を含めてです。ぼくの勝手な印象ですが。当然、政府の法律は生活に影響を与えるので、その意味では切れてませんけど、ただ人々の欲望のレベルからすれば、です。政治って、政府とか統治とかより、逸脱、争い、しまいに敵対に至るようなものだと思うんですね。それが個人間とか、ネットのような場所も含めて、私的化されたところで激化している気がします。封じられているというか。公共の場というか、政治の領域において表現されにくい。そう考えると、日本社会は表向きまるでうまく統治されているようにみえますが、潜在的にはそうではないのかもしれない。むしろ、争いに満ちた社会のかもしれません。

 

 オペライズモという所に戻るならば、オペライスタがやろうとしたことで勉強になるとすれば、まさにここだと思います。先ほどもお話しましたが、労働者のサボりの振る舞い、欲求を集団的レベルで、社会的、政治的に爆発させていくような調査や研究。爆発というか、表現へと向かう回路を、研究者が労働者と接触してともに作っていく。知識、欲求、主体性を一緒に作っていく。その過程で自分も変わるし、相手も変わる。なおかつ、それを理論的にも提示することで、他の様々な人に、さらには世界の様々なところへと翻訳されたり引き継がれてきた。研究者は知的な専門作業担当、労働者は無知だから知的ではない搾取される労働担当。こういう分割、分業を乗り越えたホンマに革命的な交わりあいだったわけです。原口剛さんは形を変えながらそういうことをやっていると思うんですけど。これは先ほどの大学の学生との関係でも考えないといけないことかもしれませんね。

 

 だから、これは調査というものの政治的な意味、調査や研究が政治的過程になりうるという話の意味なんです。重要な調査研究や面白い政治的議論は、日本でもいっぱいあると思います。でも単純ですが、オペライスタがやろうとしたことは、ただの調査ではない。ただ自分の研究のためでもないけど、ただインフォーマント(調査対象者)のためだけでもない。あくまでも資本主義をぶっ潰すためなんです。その辺はわがままです。いきなりそんなふうに言うと浮きがちかもしれませんけど。そんなことはないと思いたいのですが。でも仕事ヤだなぁ、家事ヤだなぁと思う人々、それが拒否として振る舞いの中に現れてたりすると思います。さっきお話した、オペライスタが「コンリチェルカ」と呼んだ労働者との共同研究ですね。こうした研究が求められ、大事じゃないのかなという気がします。現実の個人、あるいは個人をもっと細分化したところにある自分でも気づかないような拒否があると思うんです。それぞれは独自で勝手な拒否なのですが、それが集合するようなもの。もちろんオペライスタがやった形と同じでなくていいと思うんですよ。時代も場所も、何より労働者の欲望や置かれた状況も異なるし、そもそもそうした方法自体も時代の中で作り変えていくべきでしょう。どこに潜在的な政治性をみつけるかも。これも繰り返しですけど、最初から左翼的な労働者に限られません。いろんな価値観、ときに承服しがたいようなものを持っていて無垢でもないでしょう。右翼的な発想を持った人もいれば、家父長的な人、「政治的無関心」や「平和ボケ」とか呼ばれる人も含めてのことです。特に最後の人たちが気になりますが。まあでも、こうした作業が重要で面白いところなのではないか。あんまりこんな風に言うと、ちょっと理想っぽくなりますけど。だから日本はそんな感じじゃないですかね。

 

 

 

既存の何かに頼れない日本の状況

 

杉本 想像して、結局資本主義が勝利している現状。それがなおいっそう加速しながら。もし可能性としてコミュニズムになればいまの状況にはなっていなかったんじゃないかとか想像したりすることはありますか?

 

北川 「こうしていれば、こういう風になっていなかった」ですか?

 

杉本 ええ。でも「もしも」って難しいですよね。あるいは、この流れは瓦解するな、とか。今の状況、あるいは見立てとして、まだ何十年かは続くんじゃないかとか(笑)

 

北川 まあこのままやったら、もっと最悪にしかならないでしょうねえ。こう言ったら何ですけど、資本の側は妥協なんてないですから。搾取される、搾り取れるものはいくらでもとるわけですから。

 

杉本 戦争も込みですか?「歴史の教訓が」という話も馬耳東風ですかね。

 

北川 馬耳東風ですね。

 

杉本 原口さんも似たようなこと言ってたからなぁ……。

 

北川 ははは。

 

杉本 いやあ。困った……。

 

北川 そういう相手、いわば「敵」には期待できないと思っているんで。

 

杉本 やはりそもそも敵対関係にあると思わざるを得ない?

 

北川 そうですね。やっぱり顕在化してなくても潜在的に。そこはやっぱり捨てられないと思いますね。

 

杉本 で、そういう風に妥協しないマルクスであり、レーニンでありで、革命をやったわけですけど。まあ失敗はしましたよね。端的に言ってしまえば。でも、チョイスする前はこういう気持ちだったのかもしれない。

 

北川 え?こういう気持ちとは?

 

杉本 つまり何といったらいいでしょう?オペライズモは全体をみちゃいけない、という話に戻っちゃうかもしれないんですけど。それは生理的なテンションとして分かるんですが、いま現前では革命状況でもないし、栗原康さんの『アナキズム』(岩波新書)を読んだときもこのアジテーションはどこへ結びつくんだろう?とやっぱり思っちゃったんですね。現実の状況と結びついているのだろうか。ぼく自身が現に理解が足りなくて危機感が了解できていないかもしれないですし、栗原さんは困っている若者たち、プレカリアートの人たちに向かって発信していると思うのだけど、同時にTwitterでヘイトするようなネトウヨのような連中もさっき言った「同盟」みたいな所に回収されるという話で、お互いおんなじ感情の共振の仕方にならないか、と思っちゃったわけです。

 

北川 うむ。

 

杉本 そうすると、やはり行儀がいいのが既成の左翼なのか。まあ、リベラルでもいいんだけども(苦笑)。そんな感覚で少しはよくなる、展望が持てる何かがあれば、と思ってしまうのだけれども。

 

北川 なるほど。

 

杉本 とはいえ今おっしゃったように資本というのは何らヒューマニティとは無関係ということになると、栗原さんの書いていること、栗原さん自身はどう思っているかは知らないけれど、「敵は明確」ということになってくると、やっぱり読み直さなくちゃいけないなと思いますね。

 

北川 そうですね。例えばさっきの選挙の話もそうですけど、政党をはじめ既存の制度的なものに頼って世の中マシになるという感覚は正直持てない。これはだからどうしたらいい?という話ではなくて、感覚的に持てないんですよ。それが出発点。いまの日本社会では。ヨーロッパでは、例えばネグリとかメッザードラとか含めて、新しい制度とか対抗権力、あるいは右傾化からの防衛するため既存の左翼の立て直しとかいうことも言っています。異論もあるようですが、ただそれはヨーロッパの文脈だと、「あーそういうのもアリなんかなあ」というのはなんとなく想像できるんです。さっきのメディテッラーネアというプラットフォームというか、運動の枠組みもその一部ですよね。それを制度というなら、わかる気もします。ただ、いまの日本の状況で、こうした既存の制度とか何かに頼って世の中が良くなる感覚は持てない。「政治に関心をもちましょう」とかよく言われますよね。特に若い人に。もちろんそれで影響を受ける人もいるでしょう。でもぼくが大事にしたいのは、さっきお話したように、そういうところではないんです。それじゃただ彼らを無知扱いしてしまいかねないですしね。

 

杉本 同感です。ただ、おそらくオペライズモとか、アウトノミアの考えって生真面目な日本人が読んだら「何だ、これは?」みたいな感じだと思うんですよ。

 

北川 最初のリアクションとしてはね。

 

杉本 大衆的なリアクションとしては。涙目で働いている人が一杯いるわけですもんね。

 

北川 ホンマにそうです。借金抱えながら、非正規の仕事を何個もしながら。でも手取りは少なくて。さらに子育てしながら、親の面倒みたりしながら。そうですね、例えばそのへんのサラリーマンに、コミュニズムでも労働の拒否でもイデオロギー的に、いきなり滔々と言うたら、それはもう「お前、何イカレタこと言ってんねん」と言うと思うけど、まあ今日は飲みすぎたし、もう明日ちょっと休もうぜ、くらいな。それやったら……いや軽いかな(笑)。でも借金とか抱えていると、とんでもない縛りとなって、確かになかなかそうもいかないという支配の仕組みもありますね。

 

 

 

なぜこんなに義務を背負うのか

 

杉本 ぼくはだから労働自体を否定する理由は特にないし、観念的にアウトノミアがということは言えないですが。

 

北川 それはもう物理的状況が重要なのと一緒です。

 

杉本 物理的状況でそうしますが、ただこれは資本主義がおかしいと思うんですけど、休みたいときは休めばいいと思うんです。私は。何でこんなに義務を背負って生きていかなければならないのか?と。

 

北川 ほんまにそうですよ。

 

杉本 えぇと。ぼくは9か月だけは過労しました。大学4年のとき。

 

北川 あ、そうなんですか。

 

杉本 その以前も以後も怠惰ですから。

 

北川 ははは。

 

杉本 9か月間だけ(笑)。精神的苦痛のなかで忠誠を誓おうと思ったけど、耐えられずに。それを果たせなかった罪を感じて十字架を背負ったつもりの20()

 

北川 ええ?それはバイトとかで?

 

杉本 ああ、いえ。宗教で。まあ幹部になりまして。

 

北川 なるほど。大変なんですか。

 

杉本 何か知らないけど、毎日毎日、会合、会合、深夜までミーティングで「詰め」られて。そんなに縛っている時間があったら自由に布教活動をやらせればいいのに。

 

北川 ははは(笑)

 

杉本 まあ要はマインドコントロールを一生懸命やるわけです。でもガッチリ洗脳される人ってやはり世の中に違和感感じているわけですよね?まあ、オウムは狂っていたとしても、正直いまぼくは思うんですけど、じゃあ俗世に戻って洗脳がとけてよかったね、という話になるのかなぁ?と。

 

北川 ああ~。洗脳がとけてね。戻ってね。

 

杉本 俗世に戻って。ああ~俗世のほうがやっぱり良かったな、ってなりますかねぇ?全然なれないんじゃないかな。

 

北川 より悲惨かもと。

 

杉本 「アレフ」とかに戻っちゃってるかもしれないし。うまく溶け込めなかったりね。

 

北川 いびつでね。こちらが嫌でそっちに行ってるってことですもんね。

 

杉本 元々は生理的なものだったかもしれないですけど、戻ってもよく考えてみるとこちらのほうが「何でこんなに大変なんだ」と思ってるかもしれませんね。ましてこれが「自由意思」のもとに生きてるんだと言われる。これもまた別の洗脳かもしれない。何でこんなに行きたくもない所に毎日いかねばならないのか。しかもそれが自由意思で、という。

 

北川 社会の仕組みですね、これは。自由であるためには服従しなければならない。服従してこそ自由があるみたいな。

 

杉本 それは自由とは言わないと思うんですけどね。

 

北川 言わないですね。

 

杉本 じゃあ物質的な満足を得られるためか。まあ、それで行けたんですよ。でもバブルがはじけて20年もたてばいよいよ持って……。まあ要するにウチの親父もそうですが、騙して働いていれば家族も養えて。典型だったんですよね。家も建てられて。

 

北川 えらい。えらいですね。未来が見えた。見られた。

 

杉本 ええ。いま、見られないじゃないですか?まず。

 

 

ぼくはすべてが欲しかった

 

北川 見れないです。一昨年、イタリアでミケーレ君という30歳の男性が自殺したんですよ。遺書があって親の意向もあってそれが公開されたんです。その遺書に書いてあったのは、彼はアートデザイナー、アートグラフィックの仕事をしたかったんですけど、でもどこをあたってもからきしダメ。面接にいけても全然ダメで。それで何とか不安定な生活を送りながら、食っていたんですね。生き延びていた。けれどもただ毎日を何とかしのいでいく、生き延びていくだけの日々に疲れ果てたというんですね。ずっと何度も何度も「いまここ」をクリアして乗り越えて、毎日を闘って生き延びて、生活ギリギリのカネを得て、何とかしてやっていくことに疲れた。遺書には、最低限はいらいない、「最大限が欲しかったのだ」と書いてあったそうです。これ先ほどの話を思い出していえば、まさにオペライズモだ、と思ったんですよね。「ぼくは全部が欲しかった」と。表に出す仕方は、ある意味、真逆になってしまったわけですが。そういう欲求、期待、いまよりも良い未来。それを奪ったのが資本主義の今の社会だった。

 

杉本 本当に日本の自殺者と同じような遺書ですよね。ただおそらく、「すべてが欲しかった」という風には表現はしないですね。ただ「疲れた」で終わっていそうですね。「いじめられました、疲れました」。「社会で疲れました」まではあるかもしれないけれど、僕はすべてが欲しかったんだ、という欲望の表現はないと思います。いまの日本人はないだろうなぁ。

 

北川 そこがぼくがいちばん日本社会のヤバい、つらい、暗いと思う所ですね。例えばこの世の中で働いていようがいまいが、いまのこの資本主義の価値観とか、雰囲気とか、自分の精神にとってしんどい、嫌だというとき、もうとうてい耐えられないものが身体にたまってしまった。その過剰な何かを外に吐き出し、何かを表現しないといられなくなったとき、真面目な人は真面目な次元で表現するでしょう。それが出来る人は。でも出来ない人はうまく表現できない「それ」。いわば暴力的な何かさえ、最後は自分に向かうわけじゃないですか。例えばですが、暴動にならずに、自分に向かうしかない。自殺というものは。これは日本の本当に絶望的な所と思います。

 

 最終的に自分で自己完結してひっそり終わっていく。プライベートなこととして処理されていく。いやそれは絶対違うやろう!と思うわけです。あんまり一般化したくないのですが、鬱積していくもの、しんどさというのは外に出して、それを政治化しなくてはいけないはず。だけど結局そこで外ではなく、自分に向かうことを強いていくこの日本社会に一番のヤバさを感じちゃうんです。ときどき「無差別殺人」てのもありますよね。結局それも「無差別」とか言いながら、世の中の相対的に弱い立場に置かれている人や差別されてきた人たちにしか向かいませんから。その暴力はカネと権力のあるところには向かわないんです。

 

杉本 本当にそう。だからさっきと同じこと言ってしまうかもしれませんけど、オペライズモとアウトノミアの人たちの欲望と拒否という考え方に徹底的に開き直るみたいな流れ。ひとからチンピラと言われても一向気にしないという。別に正義だからというわけでなく、欲望に忠実である以上はそれは自己否定できない、みたいな所ですね。これはぼくもそうだけど、まず「自己否定」からはじまっているので。だから僕の第二期ひきこもり時代は宗教団体で倫理的にご立派なことを言っている自分が、まず逃げだしたということがかなり大きいんです。倫理的に人として否定されるべきこととして。

 

北川 そうですね。

 

杉本 なんていうのかな。妙な潔癖癖みたいなもの?これは如何なものか?というか。

 

 

 

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