5.世間への順応主義

 

北川 自己否定させちゃうんですね。

 

杉本 何かそれが共通感覚になっている気がするんですよ。だからそうですね。まさに順応主義というのは間違ってないと思います。彼らは順応なんかしないでしょ?そもそも(笑)

 

北川 うん、そのはずですね。自己否定してはじめて自己が形成される、社会の中で順応した自己。それじゃしんどいです。続けられない。

 

杉本 そうなんです。順応できない自分が悪い、という論法だから。例えば世間という言葉。僕もね。ついつい使いがちなんですけど。

 

北川 はい。世間に順応する。

 

杉本 「申し訳が立たない」とか。これはよく親が言いがちかな?(笑)。どう世間が見てるかと。

 

北川 ははははは(笑)。「世間様」ね。

 

杉本 世間様が「神様」かもしれない。

 

北川 ある種の天皇でしょう。世間が。その話で思い出したのが、フランツ・ファノンという人です。

 

杉本 ああ~。まだ読んでないんですけどね。

 

北川 昔よく読んでたんですよ。ファノンは精神分析医なんです。フランスに支配されていたマルチニークというカリブ海の島で生まれて、第二次大戦でフランス軍に志願して入ってたのかな。そこで確か植民地の黒人としてメッチャ下っ端扱いされるんです。そして戦後は、フランスのリヨンに留学するんですね。そこで勉強して精神科医になっていくんです。フランスで差別されたり怖がられたりして、自分が黒人であることを内面化、主体化していきます。いろいろな経験をするんですけど、最終的にアルジェリアの独立闘争、フランスの植民地支配からの独立武装闘争、『アルジェの戦い』みたいな映画もありますけど、そこに入っていきます。最初は、精神科医として現地のアルジェリア人の診療にあたっていました。で、精神を病んだアルジェリア人がいっぱい来るわけですよ。そこでいろんなこと、杉本さんはたぶん面白いと思って読んでくれると思うんですけど、まあ臨床ですよね。その記録みたいなものを書いていて、ファノンは植民地化された人間のメンタリティは基本的に自己否定だと。自分たちの存在は無価値で悪。自分の言語やことば、元々の社会の文化や歴史、自分の血は、すべて悪で無価値にすぎないということを徹底的に主体化させられてしまう。だからフランスに憧れましょう、フランスの文化こそが正しい、フランス語を喋りましょうと。フランス人みたいに振る舞いましょうよと。それに憧れさせちゃうんですね。それも具体的というよりも、それこそこの世界を超越したような「フランス人」、「白人」みたいなものにあこがれて、それを頂点として下に位置づけられた人たちが争うわけです。俺のほうがフランス人だ、いや私のほうがフランスに近い、と。セネガル人よりアンティル人のほうがフランス人に近いと言って争うんですね。黒をあらわす言葉がカリブ海地域では非常にたくさんあるらしいです。黒と白じゃなくて、黒の中の濃淡が無数に。それはもう人種主義、植民地主義の歴史の刻印です。ファノンは恋愛、黒人男性が白人女性に対してアプローチする理由とか、その逆もあるんですけど、いろいろと実際に考察していますが、結局、根本にあるのは「自己否定」なんだというんですよ。じゃあ、どうやったらここから、自己を肯定・回復するか?そのとき、結局一番の根本はその超越的な何ものか。それは日本社会ならさっき言った世間かもしれないですけれど、ファノンが見つけたのは「フランス人」というか植民者、白人なんです。白人に憧れる。それをやっぱり断ち切るということでしかない。それは自分の力でです。ファノンは、もしフランス人が「分かった、お前たちの権利を認めてやろう」とか、「独立させてあげよう」という形になると、結局感謝して終わるだけやんと言うんですね。「ありがとうございます」って。自己否定したまま。それを断ち切るためには自分たち自身で植民地支配を打破するしかないと。ファノンはその力、それは自律性と言ってもよいと思いますけど、これを「暴力」と言ってるんですけど。その何か超越的に設定されてしまった何者かから離脱すること。これはまさに離脱、拒否のひとつだと思うんですね。

 

杉本 断ち切る、ということか。う~ん。

 

北川 それはでも、こうやったら解けるよという方程式のようなものではないでしょう。いろいろ問題もあったのですが、ファノンの置かれた状況においては、それがひとつのやり方だった。それこそミクロでもあり、集団的でもあった。ファノンにとっては、現地の人、被植民者が自己否定してしまうのは、社会の仕組み、つまり植民地支配にあるわけです。ならばそれを打破しないかぎり、ひとりひとりの精神疾患は治らない。だから反植民地闘争が大事なんだと。

 

杉本 なるほどね。う~ん。

 

北川 ねえ?何かこう切り替える感覚はありますよね。

 

杉本 そう考えると日本という国も特殊な何かがあるような感じですね。世間を断ち切るというのは相当な気合いを入れて、という感じもしないではないですね。

 

北川 非人間、非国民扱いされる。

 

杉本 いっそ非国民と言われるのは厭わない、というね。

 

北川 気楽には言えないですが、そこなんですよね。そこが難しいところ。だから結局ファノンの議論を見ててもその断ち切るプロセスがあって初めて治癒される。というか、断ち切るプロセスが治療とケアのプロセスになる。反植民地闘争がケアのプロセス。「お前ら、野蛮人だ」とフランス人に仕込まれて、「そうなのか。じゃあ野蛮人から脱したい。私は野蛮でありたくない。フランス人になりたい」となってしまうわけじゃないですか?フランス人を恐れながらも、あんな風になりたいと。だから反植民地闘争って、「お前ら野蛮人だ」と言われても、ああそうだよ。何が悪いの?俺たち野蛮人だ、と言えるまでのプロセスとでも言えるでしょうか。もうそこでは「野蛮」を自分のものにし、自己定義で変容させてしまっている。でもそれは頭の中だけで、観念的にできることじゃない。社会の変革、しかも植民地社会という暴力や恐怖で支配された社会の変革が必要だったわけです。ある意味、住民全体が多かれ少なかれ精神疾患という形で、変化を、苦悩を経験している。自己否定を強いられる中で、生み出されてしまうものとして。そこから表にはき出される暴力も、白人社会へと向かわずに、同胞へと向かってたんですよ。その中にも序列があったかもしれませんが、ずっと同胞同士でやりあってしまってたんです。被植民者同士で。権力のあるところには向かわない。だからその状況を変革することが、ファノンにとってはポイントで、かつ大変な作業だということだと思います。植民地主義社会そのものへとその暴力を方向づけないといけない。回路づけないといけない。それが自己解放になるのだと。どうしても軍事組織もあってのことでしたから、階層的な関係性があって、またそれがいろいろ課題となったことではありますが。

 

 まあ、例えばオペライズモの労働者は最初から野蛮人だと言われても「ああ、そうだよ」と言えた人もいたかもしれないけど(笑)。でも…。

 

杉本 でも、そこでうろたえちゃった人も。

 

北川 そうですよね。

 

杉本 いたかもしれませんね。仲間がいるとまた違うのかもしれませんけど。

 

北川 そうですね。そこはむしろ本当は「そういう人もいた」というべきですね。

 

 

 

運動の層が厚いイタリア

 

杉本 なるほど。そこはぼく自身であり、日本社会の中にある世間というものとの付き合いかたというか、世間というものがどうやって出来上がっているか考えることはまた別にあるとして。どうなんでしょうね?イタリアは政治としてはいま(19年時点)右派政権になってますけど、北川さんもずっとイタリアにいるわけでもないでしょうから、何とも言えないところかもしれませんが、イタリアの人たちはやはりそういう感覚というものは生きているんですかね。まあ、日本よりは層が厚そうですが。

 

北川 その言い方がイメージしやすいと思うんです。日本からすればやはり層が厚いと、行った人たちはみんな言いますね。たとえばアンダーグラウンド的なものでもいいんですけど、やっぱり分厚いんじゃないですかね。「運動のインフラ」が充実しているという印象です。社会センターもそうですけど。酒が安いから若者がそれ目当てにやってきたりしてます。あとヒップホップとか、それこそパンクのライブを目当てに。そんな中で政治的に共鳴するようになる人もいるんです。なぜ社会センターはこんなに酒が安いのか。この安さの背景にある思想に共鳴したんやと語ってくれた活動家もいました。ただサルヴィーニも10代の頃は、社会センターに通ってたんですよ(苦笑)。ミラノのレオンカヴァッロという社会センターに。

 

杉本 へえ~。

 

北川 あと運動や闘争に関する本や雑誌、あるいは運動が自分たちで出版している資料というか、ミニコミ誌、ジンというか。そういうものが無数にあり、しかもそれらが集まって置いてある場所、本屋もそれなりにある気がします。手で触れられるというか。社会センターもそうですね。ミラノの「コックス18」っていう昔からある社会センターに、重要な本屋、そしてアーカイブがあります。プリーモ・モローニ・アーカイブ。櫻田和也さんと何度か行きました。そこには昔のいろんな運動の資料がいっぱいあって、調査でメチャクチャ助けてもらいました。なので、当然、断絶と分岐、争い、新たな動きも無数にあるのでしょうが、それらがこうした過去の思想や実践とつながっている感じはあります。いま現在の活動家の話を聞いても、そう感じることは多いですね。

 

杉本 インフラがね。あとひとつ、昔と引き付けていいですかね?例えば68年の団塊の世代の人たちの全共闘時代の人たちですね。あの時代の学生運動というのは、やはり違うのですか?オペライズモの思想とは。

 

北川 どうなんでしょうねえ。

 

杉本 おそらく「反労働」までは言いませんよね。さすがに。

 

北川 言わないでしょうね。

 

杉本 もともと共産党の中央指令みたいなもののアンチテーゼから…。

 

北川 そうでしたからね。それはあったと思います。まあねえ。現象としてはたぶんどこでも同じようなことはあったと思うんですけど、でも労働しない、労働者であることをやめる人間、労働に対する愛がない人にここまで注目するというか、「労働の拒否」をそこまで、革命的なものに持っていこうとしたのは、イタリアの独自性なんでしょうね。(こう言っていいのかどうか分かりませんが)

 

 

 

ユーモアの大切さ

 

杉本 ちょっと日本で誰か頭に浮かぶか?と言ったら浮かばないですね。そこまで言い切った人は。

 

北川 そこまで行ったのに、真面目路線でレーニン主義的なものが好きになったというのはね。やはり大切なのはユーモアですよ。ビフォですね。

 

杉本 なるほど、ユーモアね。

 

北川 それを忘れないのはとても大事だと思うんですよ。「真面目に行こう」とガッとならない。真面目に生きたらいまの時代、鬱(ウツ)になるから。

 

杉本 だから繰り返しですが、すごく先駆的だったなという印象ですね。なかなかこう、硬くならないという。

 

北川 硬くならないです。精神も筋肉も。それはすごい。軽やか。そしてアイロニーとか重視します。笑いや冗談でもいいと思いますけど。ビフォは絶対そうですね。まあ絶望はしまくってると思いますけど。いま現在の労働の拒否ということで言えば、さっきお話した最新の本の最後に書いているんですよね。AIの話。

 

杉本 期待してます?(笑)

 

北川 やはり労働の拒否をずっと考えてるので「オートメーション自体を恐れるな」とは言ってますね。オートメーションや機械化で仕事が奪われると発想するのは絶対に違う。そんなこと言ってたら、いつまでたっても労働、賃労働にすがりついて、それに支配されてしまう。機械による労働の拒否は、ビフォ自身が実験してきたことでもあるし、考えてきたことでもあるんですよね。だって、「テクノロジーの進化は、労働を拒否するところからはじまる」と。要するにサボったり怠け者であることからはじまる、と言ってるんですよ。そう思うと、今のサボれない現代サッカーはつらいですね(笑)。

 

 たださっきも出ましたが、今あるじゃないですか。「AIでベーシックインカム」。そら、たくさんもらえたらうれしいですけど。ただ根本においては、ああいう議論にはどうも与せない。ビフォは、ベーシックインカムは大事だといろんなところでよく言ってます。実際、それで金銭面でも気持ちの面でも、生活上の余裕を得られる人がたくさんいるわけですからね。もちろん、額がどうか次第でもありますが。ただやっぱりオペライズモの発想からすれば、それこそ今の政府や企業家たちでAIが開発されそれが進められ、市場に導入され、人と代わっていくといっても、世の中の構造自体が何も変わらなければ、結局資本主義の中で労働がなくなるかどうか。労働者にとってそれがよいかどうかわかりません。

 

杉本 ヒューマニズムと関係のない動きなのであれば……。

 

北川 やはりダメでしょう。

 

杉本 人間は見捨てられるだけになる可能性が高いということか。

 

北川 ジジ・ロッジェーロであれば、それで資本主義を脱することができるなんていうことはない、と断言するでしょう。馬鹿げていると。AIで、機械化で、ベーシックインカムなどは資本のことばであって、労働者のことばじゃない。労働者は資本主義から離脱する、まあ闘うということがなければ世の中は絶対に変わらない。資本にとって有益なことが労働者にとって有益ではないでしょう。逆に労働者にとって有益なことが、資本にとって有益なわけはない。資本家はそんなことを絶対にしてくれるわけはない。ぼくもそう思います。それは絶対そうだなと。

 

 でもビフォは今お話ししている本の最後の章で、「認知労働者」というか、「技術者」と「アーティスト」の結びつきが大事だと言うんですね。ちょっとさっきも言及したところです。世界の凝り固まったものの見え方、資本主義に従った見え方、それは世界に構造化され、物質化されたものですが、それを変えさせてくれるのはアーティストなんだ、と言うんです。で、技術者は、まさにAIなどをつくりだす人たちのことですが、知識を有する、知識をつくりだすこうした技術者はアーティストとくっつかないといけない。いまは経済学者とくっついている。つまり、利潤を上げることにしか興味のない企業です。経済はこの技術者の知識をくすねている、略奪しているのだと。それで利益を上げている。だからね、技術の発明それ自体が、良い悪いとかそういうことが問題とされているわけではないんです。問題は、利潤を上げるだけの経済の枠組みのほうに技術が奪われていることなんだと。だからまずは、いまの資本主義とは別の世界をみせてくれるアーティストが必要だと。そういう議論をしてますけど。

 

杉本 おそらくビフォがオープン・ソースとかに希望を抱いたころとおそらく変わってないようですね。

 

北川 うん、うん。

 

杉本 同じように経済とアートが結びつくべきではないという。ただ、ある意味では彼、敗北の歴史でもありますよね。

 

北川 まあ、敗北と言えば敗北ですよ。それは間違いないでしょう。

 

杉本 ただ、鬱病にはなってないという所がね(笑)。なかなか立派な。

 

北川 どうなんですかね(笑)。

 

杉本 その点ではネグリのほうが(笑)

 

北川 なるほど。確かにあんなこと書けないですからね。「人間は無限のポテンシャル、潜勢力を持ってる」なんて書けないですからね。

 

杉本 ネグリはそういうわけですか。

 

北川 極端に言っているのはネグリですね。まあオペライスタはだいたいそういう風なこと言ってますけど。ビフォは無限ではない、と言ってます。「複数」だと。

 

杉本 複数?

 

北川 有限だということですよね。人間は何でもできるみたいなネグリの主張は夢と。でもね、ぼく昔からネグリは読むと元気をもらえるんですよ。

 

杉本 うん。元気をね。

 

北川 ああ、そうだよな、という。でもすごい人ですね。牢屋に濡れ衣でぶち込まれて、亡命して、フランスからイタリアに帰ってきてもしばらく獄中にいたりして。それでも言ってることの根幹は、いっさい変わらないという。当時のいろんなしがらみなどもあるとは思いますが、むしろ彼自身に人間のポテンシャルを感じる。

 

杉本 感覚的にはぼくはビフォさんのほうが好きかと思います。

 

北川 両方好きですね。ですが、ぼくもビフォなんやろうかなぁ。なんかね、ゆっくりできるんですよね。

 

杉本 何かいろいろね。文化的な楽しさをけっこう味わっている感じがして。アメリカ行って80年代初頭のニューウェイヴ・ロックに触れたりしてるし。

 

北川 そうそう。

 

杉本 趣味似てます、なんて(笑)

 

北川 ああ~。それはいいですね。

 

杉本 サイバー・パンクの話も出るし。ウイリアム・ギブソンとか。読んだことないけど、そういうのが一時期日本でも盛り上がってましたし。あんまりハズレてる感じがしないんですよ。

 

北川 いやあ、ぼくはパンクをちょっとかじった程度なので、それについてはわかりません。でもいいセンスですよね(笑)。

 

 

 

地理学の歴史もアナキズムから

 

杉本 北川さんも、論文とか書かなくちゃいけないでしょうけど、その時はそれはそれで大変でしょうね?

 

北川 そうですね。好きに書きたいのは山々ですけど。

 

杉本 好きな方法で論文とか成立するんですか?

 

北川 いや、そんなことはないです。論文となれば、書き方というのか、論の形式ややり方がある程度決まっているので。そうした手続きは踏むしかありません。ただ英語の学術雑誌のほうが、わりと自由な形式のような気がします。巨大出版社の金儲けの対象になってますけど。英語の地理学の雑誌をみてると、自由な印象です。いや、内容が自由なんであって、気のせいなんかなあ…。

 

 それで思うんですけど、ほんとうに今、外国の運動や思想が日本語で読めないんですよ。これはほんまによくないですね。知らない世界でどんなことが起こっているのか、どんな闘いがあるんだろう。どんなことしてるんだろう。まあ好奇心ですね。感覚的にはぼくが大学院生のときよりも全然読めない気がします。例えば、黄色いベスト運動についても日本語では多くは読めないでしょう。当時はいろいろあったんですよ。政治状況のみならず、それとリンクする思想や議論がバーッと翻訳されていて。あと妙な文章の人とかも。そういうのをメッチャ楽しみにして読んでました。その意味では栗原康さんがやってる仕事は貴重かなと思います。ないですよね、いまあんな感じの文章は。

 

杉本 おそらくないだろうなあ、と思いますね。ぼくも最初に栗原さんの文章に出会ったときは、これは批評で本当に面白い人が出てきたな、って思いました。久しぶりにいい意味でアナーキー、結局アナーキーという言葉になっちゃうんだけど。過激な表現をする人が出てきたな、と。80年代はけっこういたんですよね。まあ書きっぱなしといえば、書きっぱなしな感じでもあったんだけど(笑)。でも自由な時代でしたよ。それがだんだんなくなってきたと思っていたんです。だけどやはりいまは栗原さんとか、森元斎さんの『アナキズム入門』とかも読んで、まあ栗原さんと同じように柔らかい文章で、バクーニンや、クロポトキンとか。ほかにも知らない名前のアナキストもいるんだな、というのもあり。

 

北川 そうですね。地理学の歴史もアナキズムなんですよ。有名なのはルクリュ、クロポトキン。森さんの本にも書かれた通り。とはいえ主流派の地理学は、国家主義だったわけですが。以後の「地政学」というもっと露骨な国家主義、帝国主義にもつながります。

 

杉本 なるほど。地政学ってそういう背景なんですね。ぼくも最初は地理学と聞いた時に、ブラタモリじゃないけど、地質とか、地形とか、自然科学の印象しかなかったので。人文地理学って全然違うんだなあって思いました。これほどアナキズムに近いとは。

 

北川 その意味での地理学精神、受け継ぎたいですね。でもルクリュたちの時代っておっしゃったような区別はないんですよ。人文と自然を分けるみたいな。だから彼らは全部。研究対象は、地域とか都市とか国とか、経済とか社会とか文化とかじゃなくて、ずばり「地球」です。あれはやっぱりすごいですよ。本当にすごいと思う。スケールがでかい。でも各地をメチャクチャ旅して、歩いています。いまルクリュの『新世界地理』っていう何巻にもわたる本が、一冊ずつ日本語に翻訳されて出版されていっているんですよ。すごく高いですけど、これを読むだけでも地理学が何かは一発でわかりますよ。世界、地球なんですよ。すごい。翻訳ってメッチャクチャ大事な仕事ですよ。

 

 

 

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フランツ・ファノンー(19251961)。マルティニック島に生まれた精神科医。留学先のフランスで 精神医学を修業後、アルジェリアのブリダ精神病院に赴任。アルジェリア解放闘争が開始される最中、民族解放戦線(通称FLN)に加わり、以後、同戦線の闘士として活動する。1961年に白血病で死去。代表作に『黒い皮膚・白い仮面』、『地に呪われたる者』がある。ァノンは、暴力革命による民族解放を論じた、第三世界主義の著名な思想家として、特に1960年代に、国際的に知られていた。1970年代から80年代にかけて一時忘却されるものの、1990年以降、英米圏を中心としたポストコロニアル理論におけるファノンの読み直しに伴い、再び、脚光を浴び始める。

 

『アルジェの戦い』―1966年にイタリアで公開された戦争映画。監督はジッロ・ポンテコルヴォ。アルジェリアのフランスからの独立までのアルジェリア戦争を描いている。第27回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。

 

オープン・ソースーオープンソースとは、人間が理解しやすいプログラミング言語で書かれたコンピュータプログラムであるソースコードを広く一般に公開し、誰でも自由に扱ってよいとする考え方。また、そのような考えに基づいて公開されたソフトウェアのこと。(IT用語辞典、E-WORDSより)

 

ウイリアム・ギブスンーウィリアム・ギブスン(William Ford Gibson1948317- )は、アメリカ合衆国サウスカロライナ州コンウェイ生まれの小説家、SF作家。ベトナム戦争の際に、カナダに移住し、しばらく路上生活を経験した後、ブリティッシュコロンビア大学英文科を卒業した。1977年にセミプロ雑誌でデビューし、1982年に発表した短編『クローム襲撃』で一躍脚光を浴びる。 その中で初めてサイバースペースの概念を提示した。また、1984年の初長編『ニューロマンサー』で、サイバーパンクSFというSFの新しいジャンルの牽引役となった。(Wikipediaより)