いまの子どもの学校への求心力は「不安」

 

山下 そうですね。そのあたりは、10年前に『迷子の時代』を書いた時点で、すでにはっきりしていたような気もします。

 

杉本 ここから変わっていない気もしますね。

 

山下 むしろ、さらに市場に押し流される方向に進んでますよね。学校に対するアンチとしてのフリースクールみたいな構図というのは、もうとっくに崩れちゃっている。もはや、かつてほど学校は信じられていないし、アンチとしてのフリースクールにも求心力はない。じゃあ、子どもたちにとって学校の求心軸は何かといったら「不安」ですよね。

 

杉本 不安だから行っている?

 

山下 学校に行けば希望があるから行くのではなくて、自覚しているかどうかは別にして、ほかにどうしたらよいかわからなくて不安だから行っていることが多いように思います。それは、かつての「学校信仰」とはちがうし、不登校にしても、「学校信仰」があったときと現在では、ちがってきているんじゃないでしょうか。

 

杉本 学校が神格化されていたぶん、逆に不登校にも力があったと?

 

山下 反発力というか、そういう面もあったんだと思います。いま、またフリースクールなどがメディアに出ることも増えてはいますけれども、実質的には、フリースクールの求心軸は衰えて久しいと思っています。

 

不登校というのも、いわば個人的に対処すべきリスクになっていて、個人の力で解決するものになっている。それは、一見自由になっている、容認されているように見えるけれども、そこには社会を問う力はありません。なぜなら、いまの社会を前提にして、個人が生き抜くことばかりが目指されてしまっているからですね。そういう意味では、逆説的だけれども、不登校は、かつてのほうが問題を根本的に問うきっかけになっていた面はあります。いまは、自分が努力して解決すべき問題になっている。そうなると、そこでうまくいかなければ、自分の努力が足りなかったとか、能力が足りなかったということにしかならないですよね。それは、とても苦しいことだと、私のようなおじさんは思ってしまいます。

 

杉本 反発力としての不登校というのは、たとえば「不登校でもいいんだ」という言い方でしょうか。そういう言い方は、学校が神格化されていた時代には意味があったけれど、学校自体がそれほど信奉されていない時代には、また別のことばを考える必要性があるのだろうなと思いますね。そのあたりで、非常に重要な問題提起を持つことばが、山下さんにはあると思います。

 

問題は、自由選択の時代になると、そこらへんの議論の歴史の経緯が「わからない」という人たちですよね。なぜフリースクールどうしの人たちが対立して議論しているんでしょう?と。たとえば教育機会確保法なんかも、僕もすごくわかりにくいし、難しい。いま、不登校の子を抱えて悩んでいるお母さんとか、安心を求めている不登校新聞などの読者層からすると、やはりちょっとわかりにくいだろうと思うんですね。それなりに歴史をたどっていかないと、なかなかわかりにくい話だなと。

 

 

 

フリースクール支援の狙いは

 

山下 そういう面はあるでしょうね。法律の細かな議論は置くとして、そのあたりを考えるにあたっては、常野雄次郎さんが問題提起したことをふり返っておきたいと思います。彼は「明るい登校拒否のストーリーは嘘くさい」と言っていたわけですね。学校に行けなくなりました、すごくしんどかったです、だけどフリースクールと出会って、学校に行かないのは僕だけじゃないと知ってすごく元気になりました、いまは社会人として立派にやっています、というようなストーリー。そういう起承転結になっているけれども、その「結」の部分はとても嘘くさいんだと。

 

杉本 ひきこもりの人の話と同じですね(笑)

 

山下 そうですね。彼は、自分の身のまわりの東京シューレ出身者には、その後、しんどい状況を生きている人がたくさんいて、むしろ成功して語れる人のほうが少数だと言っていました。それなのに、まるでそういう人がいないかのように「明るい登校拒否」のストーリーが語られている。だから、「とてつもなく嘘くさい」と彼は批判したんです。不登校を肯定したい、安心したい人は、「将来は成功するんだ」という前提で肯定しようとするわけですね。学校に行かなくても社会ではやっていける、だからいまは学校に行かなくても大丈夫。東京シューレは、そういう枠組みのなかで不登校を肯定しようとしてきた。

 

そこで何が問題かと言えば、不登校のなかでも成功した人は認めるということになっていることですよね。下村博文文科大臣(当時)は、2015年にフリースクール支援を打ち出したときに、「不登校の子どものなかには、アインシュタインやエジソンのような逸材が眠っているかもしれず、そうした“ダイヤモンドの原石”を磨く機会をつくりだしていく」と言っていました。現在の学校という枠にはまりきらない才能のある人たちをつぶさないためにフリースクールを支援しようということですね。それは、学校ではやっていけないとか、苦しいとか、そこで立ち止まってしまっている人のことを考えての発言ではないでしょう。教育機会確保法をはじめ、いまの政権の教育政策の根本にある思想は、才能ある少数の人に教育予算を重点配分するというもので、できない多数の人たちには、残った予算を安く分配すればいいというものだろうと、私は思っているんですね。

 

杉本 それが機会確保法への反対意見なんですね。非常にわかりやすいです。

 

山下 法律の問題にかぎらず、ですけどね。そういうかたちで不登校を肯定するというのは、ほんとうに肯定したことなのか? ということですね。「学校に行かなくても社会でやっていける」という語りがなぜよくないかと言えば、それでは学校のあり方は問うことができても社会のあり方を問えなくなっちゃうからです。ひきこもりの問題ともつながっている問題なのに、そこで切断されてしまうところもある。

 

杉本 社会の問題を問わないまま、社会で適応できましたというストーリー。かつては適応できなかったけど、いまは適応できてますよとなって、結局は「適応」に関するストーリーなんですね。

 

山下 そうですね。そのあたりをちゃんと議論しなければならないと思うんですけど、法律をめぐっても、その後も、かみあった議論はできていないように思います。でも、法律がどうなろうと、そのあたりは、ちゃんと考えないといけないことだと思います。

 

 

 

個人的なことは政治的なこと

 

杉本 端的に言えば、資本主義社会の構造上の問題でもありますよね。最近、若い研究者の人たちによく話を聞いているんですが、政治家はまったく信用しないというんです。「あずける」という間接代議制みたいなものはインチキくさいと。最近僕が会っている人たちは、たとえば栗原康さんから始まって、それぞれ研究分野はちがっても、基本的にはオートノミー(自律)思想の人たちなんですね。その意味では、常に僕自身が問われる(笑)。僕は、まだどこかで代理政治に期待しているところがある。昨日も山本太郎の話に共感できるところがあると話してたんですが、わりとスルーなんですよね(笑)。政治家などに期待できないという。そういう話を聴くと、逆に自分の姿勢が問われるというか。もっと身近に生きている人たちとの間のめんどうくさいことがあって、そういう人たちもちゃんと生きてるし、でも彼らは政治意識のなかで生きているわけではぜんぜんないし(笑)。政治に無関心だという人のほうがふつうのあり方なんじゃないですか? みたいなことをおっしゃっていて。

 

山下 政治というものをどう考えるかですけど、政治は政治家や国会のなかだけではなくて、どこにでもあるわけですよね。

 

杉本 はい。ありますね。

 

山下 政治家だけが政治をやっているわけではなくて、国会で立法することだけが政治の仕事ではないわけで、たとえば、こうやって僕と杉本さんが話していることも「政治」ですよね。

 

杉本 そう。身近な関係のなかに、すでに権力的な問題ってありますよね。

 

山下 自分の持っている価値観であるとか、暮らし方とか、そういうことのなかに政治が入ってしまっているわけです。ですから、自分を問い直していきながら、自分の身のまわりの人間関係を考えていくことは、充分に政治的なことだと思うんですね。フェミニズムでは「個人的なことは政治的なことだ」と言っていましたけれども、身近なところに政治はある。たとえば、私は組織は嫌いですけれども、組織を運営していますし、自分の関わる場をどうするのかというのも、政治ですよね。

 

杉本 そうですね。

 

 

 

組織運営のための自分ではない

 

山下 ただ、順番をまちがえるとダメだなと思うんですね。組織を維持するためにどうしようと考えると、疲弊してしまう。たとえば、不登校新聞が休刊危機になったときも、私はそういうことを言って、たぶん石井さんは失望したと思うんですね。誤解をおそれずに言えば、私は不登校新聞にしても、フォロにしても、つぶれてもいいと思っているところがあるんです。

 

杉本 ダメになるものは仕方ないかな、ということですか。

 

山下 う~ん、そういうことでもなくて、実際には、つぶれないように努力してもいるんですけどね。不登校新聞休刊危機のときに石井さんに言ったのは、不登校新聞のために石井さんがいるわけじゃないでしょう、ということです。石井さんがいて不登校新聞がある。不登校新聞がどうなろうと、自分の問題意識があって、身近な人とのコミュニケーションがあって、そこに場があれば、それは不登校新聞というかたちではなくなってもいいんじゃないか、というようなことを話した覚えがあります。大事なのは、そういう自分の軸みたいなものを持っていることで、そういうものがあれば、どこで何をしていようが、場は生まれるんじゃないか。それを逆転させて、新聞を維持させるためにがんばり続けるというのでは、疲弊してしまうのではないか。石井さんがどう受けとめられたかはわかりませんが、私自身は、そう思っているところがあるんですね。

 

杉本 いやあ、なかなかそういう話ってきついですよね。よく「僕ら、そういう教育を受けてこなかったですよね」みたいな話を友だちとします。いまのお話は、自己存在みたいなところを打撃されますでしょう。やはり僕も同じような立場になれば相当きついと思うんですよね。ある種世間的なもの、社会的なものを大事に考えると、それを維持したいというのは、実は自分が可愛いということが核としてある。現に僕にはあるし、それがあるとすると、そういうかたちでやってきた側面からは、それはすごく厳しい声かけだと思うんです。

 

山下 そうかもしれませんね。最近、ブログに鄭暎惠(チョン・ヨンヘ)さんのマイノリティ論を引いて記事を書いたんですね。ざっと言うと、マイノリティがマジョリティに認めてもらおうと思って語ると、ステレオタイプになってしまうし、それ以外の語りを抑圧してしまうこともあるし、そういうなかでアイデンティティを持つのはあやうい、ということです。

 

杉本 (笑)あれもなかなかキツかったです。

 

山下 その記事を読んだ方から、「書いていることはもっともだけれども、いま不安定な人にとってはすごくきついんじゃないか」という意見をいただきました。たしかに、それはそうだと思うんですね。そこは、私もいつも迷いながらなんですね。たとえば学校に行かなくて、ほんとうに苦しい渦中のときに、学校に行かなくてもフリースクールに行って、その後元気にしている人がいるんだと知って、楽になることはあると思います。だけど、そこでフリースクールを絶対化してしまったり、そこを信仰するみたいになっちゃうと、それはそれで苦しい。いっとき、かりそめの安定はあっても、それは壊れていかざるを得ない。

 

ただ、それをつきつめていくと、ある種の修行みたいなことになってしまうんですよね。自分のアイデンティティを保証してくれるようなものはどこにもなくて、「迷子」なんだと。だけど、それは当事者が「迷子」でなければならないということではなくて、誰しも安定したアイデンティティを持ちたいと思うのは当然ですよね。私が思っているのは、不登校やひきこもりの人たちに関わり続けるのであれば、その「迷子」のところに立ち続ける必要がある、ということなんです。かりそめの幻想をふりまいて、それを商売にするのはいかがなものかと。

 

杉本 そこを通過して、ふつうに世の中をただ安心して生きていきたい思う人にとってみると、学校をドロップアウトして、フリースクールに通って、通過点とする人がいても別にいいんでしょうけど、その場所を自分の生活の基準にして生きていく人たちへの問いかけなのでしょうね。

 

山下 そうですね。私の批判はむしろそこにあるのかもしれません。

 

 

 

「見たくない」現実は存在する

 

杉本 そこを利用している人に向けては、ちょっときつい話かもしれませんね。

 

山下 ただ、別に私が言わなくても、そういう現実はあると思うんですよね。言葉にすることで、「見たくない」と思っているものを見せてしまう面はあるかもしれないですが、それは別に私がつくっている現実ではないわけです。それがたいへんきついことにはちがいないけれども、きつい時代というか社会になっているということだろうなと思うんですよね。アイデンティティというものを考えざるを得ないこと自体が、きついことだと思います。かつてであれば、一部の文学者とか哲学者が考えていることで、大方の人たちは考えずにすんだことだと思うんです。ところが現在は、多くの人が考えざるを得ない。それはきついことだけれども、逆に言えば豊かなことでもあると思うんですね。

 

杉本 違和感を持たざるを得ないような、そういう感性を持ってしまったということはありますよね。確たる集団のなかにいると、どうも合わないとか、みんながワイワイやっているところに入っていけないとか、そういう生理的な違和感から始まっているかもしれないけれど、問いを追求していくと(笑)、そういうところに結びついていく。

 

山下 そうですね。でも、それは常にあやうさと裏腹ですよね。

 

杉本 そうですね。常野さんという方も、社会運動の闘争者みたいではあるけれども、なかなかつらそうではあるなと思いました。亡くなられてしまった方に申すのも問題ですけれど……。

 

山下 そうですね。それはそう思います。

 

杉本 どこに着地ができるんだろう? というのは、おそらく山下さんもやりながら、考え続けながら、見据えていると思うんですけど。

 

山下 そうですね。矛盾を解消しようとするのではなく、矛盾を抱え続けるということでしょうか。矛盾していることが現実ですよね

 

杉本 そういう時代になってきてしまった。私が昔セラピーの先生によく言われたのは、「君はとくに精神的な問題はない。ただ、いろんなメニューを見て批評しながら、選ばないということがただひとつの問題点だな」と(笑)。「う~む…」みたいな。それはまさにその通りだし、でも、この問題はなかなか厄介な問いだなって。でも、このあいだ「そういうふうに言われましたけど、いまだに解けないですね」と言ったら、「いやあ、別に当時から君だけにかぎらず、そういう時代になってしまったと思っていただけだよ」みたいなことを言われて(笑)。そういう時代に立ってしまってるんじゃないの? みたいなね。

 

山下 古くて新しい問いみたいなところがあるんだと思います。たとえばE・フロムの『自由からの逃走』が刊行されたのは1941年ですよね。近代以前の共同体から人びとが引っこ抜かれて、近代社会に投げ込まれて自由になってしまうと、アイデンティティは不安定になって、自分で確立しないといけなくなってしまう。その自由さに耐えかねて、アイデンティティを保証してくれる強いものを求めて、ファシズムみたいなものが生まれてしまう。あるいは、不安定さに耐えかねてヘイトスピーチみたいなものも出てくるし、トランプ現象みたいなことにもなる。あちこちでポピュリズムとか、極右的なものが出てきているのは偶然じゃないですよね。不安定さに耐えつつ、強いアイデンティティを求めず、「迷子」のまま生きていこうというのは、確かにかぎられた条件のなかでないと、できないことなのかもしれません。でも、実際には安定したアイデンティティを与えてくれるものなんてないし、その幻想にすがっちゃうと危ない。

 

そういうなかで、フリースクールみたいなもののあり方も考えないといけないんだと思いますが、私は、先鋭化するのでも幻想を背負うのでもなく、やっていけないかなと思っているんですね。自分の関わる場が層としていろいろあって、その層のひとつに、問題意識を深く持つ場もあればいいんじゃないかと。複数ある層を往復しながら、だんだん自分の軸みたいなものを練ることができれば、そういうあり方が望ましいんじゃないかなと思ってます。学校が悪いからフリースクールが正しいみたいな構図にするのは、やはり苦しいだろうと思っています。

 

杉本 確固としたアイデンティティづくりみたいなことは、むしろきついというのが人のありようであり、実際問題、やはりこれだけスピード早くいろいろ価値観が動く時代になると、ある種のこわばり現象みたいなかたちになって、本来はそういうところにいなかった人もカルト的になっちゃったり、ナショナリスティックになっちゃったり。悩み続けることの耐え難さに対抗して、無理にでも何か特定の観念をつくって生きていければという。それは、ある種の悲鳴のようなものに感じちゃいますね。事実、僕の学生時代の知り合いも、いまだに選挙期間になると電話が来て。僕などはほぼ同じ年で、相変わらず信じてるの? と不思議なんですけど。そういう人もいるわけで、安心感というもの、現代人の安心というのもやはり簡単なものでもないなという感じもしますね。

 

山下 実際問題としては、いろいろ悩ましいんですけどね。だから、ある種のいいかげんさも大事だと思っています。

 

杉本 でないと、やっていけないところもありますもんね(苦笑)。

 

 

 

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*栗原康 (くりはら やすし 1979- )政治学者。専門はアナキズム研究。東北芸術工科大学非常勤講師。著書に『大杉栄伝 永遠のアナキズム』『働かないでたらふく食べたい』『村に火をつけ、白痴になれ』など多数。栗原康氏については本インタビューサイト、2017.10.1512.3掲載分も参照されたし。

 

*鄭暎惠 (チョン ヨンヘ 1960年-)東京都生まれ。1979年慶應義塾大学文学部に入学。都市社会学を専攻し現象学的社会学の理論を学ぶ。大妻女子大学大学院人間文化研究科教授。民族運動(指紋押捺拒否や国籍確認訴訟運動など)、外国籍住民(特に外国籍女性)を対象とした社会活動を幅広く展開しており、東日本大震災後には被害者の外国籍女性のための電話相談受付支援活動も実施。抑圧・差別と解放、マジョリティとマイノリティ、フェミニズムにおけるレイシズムの問題、在日コミュニティにおける複層的なポジショナリティなどを論ずる。(ジェンダー社会科学研究センターサイト参照)

 

E・フロム エーリヒ・ゼーリヒマン・フロム(Erich Seligmann Fromm1900- 1980年)。ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者である。マルクス主義とジークムント・フロイトの精神分析を社会的性格論で結び付けた。新フロイト派、フロイト左派とされる。フロムの思想の特徴は、フロイト以降の精神分析の知見を、社会情勢全般に適応したところにある。フロムの代表作とも言える『自由からの逃走』ではファシズムの心理学的起源を明らかにし、デモクラシー社会が取るべき処方箋が明らかにされている。主著に『自由からの逃走』『愛するということ』など多数。(Wikipedia参照)