心理学と宗教(上)安岡譽さん(精神分析医)

記念すべき第一回目のインタビューは心理学、特に人間のこころの深層から見た宗教の本質を精神分析医の安岡譽・元札幌学院大学教授に語っていただきました。人はなぜ宗教を必要としたか。宗教が果たした役割は何か。社会生活を営み、明確に死を意識する動物として生まれた人間の本質的な要素を忌憚なく語っていただきました。

安岡 昨年の話ですが、『宮沢賢治と東北のこころ』と題して東北の話をしました。東北人はどんな心の特徴があって、他の地方とはどう違うのかというのを歴史的なことを含めて東北人の心根の特徴について話そうと思ったわけです。

 

― 東北人の人のこころ、ということですね。

 

安岡 そうですね。いま大震災や原発事故があり、大変ご苦労されていますが、ご苦労はもう、はるか昔の弥生時代から始まっているんです。

 

― 縄文の人々の時代からですか?

 

安岡 そうです。縄文時代の人びとが平和で生活していた中に、野蛮な弥生人が大陸から入ってきたわけですよ。簡単に言えばね。

 

― 野蛮な(笑)。

 

安岡 まあ、オーバーに言えば「侵略」したわけです。

 

― むかしエミシとかエゾとか言われた人たちでしょうか。

 

安岡 そうです。インディアンがアメリカに住んでたのに、イギリスから来た連中が何百万人も原住民を殺して、そしてアメリカを建国したというのと同じような話です。まぁ、日本ではそこまでのことではなかったのですけれども。ただ、もともと神武天皇が大和に入るという神話がありますね。

 

― はい。

 

安岡 実はそう簡単に入ることが出来て支配することは出来なかったわけなんですよ。何故かわかりますか?ずっともうその先にすでに実質的な「大和朝廷」なるものがあったわけですよ。

 

―近畿地方にですか?

 

安岡 そうです。

 

― そうだったのですか。

 

安岡 だから最初に「邪馬台国の王」とされる長髄彦(ナガスネヒコ)がいたわけです。いわば、今でいう天皇がいたわけです。

 

― ああ、そうなのですか。現在の系統の天皇ではなく?

 

安岡 そう。そこに侵入して乗っ取るみたいになった。簡単に言えば「逆賊」なわけですよ。そしてそこをそれまで支配していた人たちは仕方なく東北の津軽の方に逃れて行きました。亡命ですね。そこで、新たに先住民とともにアラハハギ王国を作ったわけなんです。

 

― アラハハギ王国?

 

安岡 つまり、真の正統な王朝は自分たちであると主張したかったのでしょう。それが東日流(つがる)王国というわけです。

 そうするとですね。大和朝廷の「侵略者」にとっては目の上のたんこぶですから東北いじめが始まるわけですね。そのように政治的な意味ではずっと中央からいじめられてきたんです。東北の血がつながっている奥州藤原三兄弟も鎌倉幕府の源頼朝にやられましたしね。

 しかし、東北の中には優秀な人材が沢山います。安藤昌益って知ってますか?

 

― (笑)。知ってます。あの方は確か青森か何か、あちらの方ですよね。

 

安岡 そう。八戸の町医者。彼などはマルクス以前にすでに今でいう社会主義、共産主義を唱えたわけですね。

 

― ええ。完全な共産主義者ですよね。

 

安岡 数学で言えば江戸時代に関孝和なんていうのは、微分積分を世界に先んじてやったくらいの力を持ってたわけで、日本人というのは優秀な人材が意外と地方に隠れている。そして東北に多い。太平洋戦争に反対した海軍の大臣やなんかは東北人が中心となって反対したわけです。

 

― 米内光政とか・・・でしたか?

 

安岡 そう。米内光政とか井上成美ですね。そういう人材もいれば、平民宰相と言われた原敬などもそう。

 

― 岩手ですね。

 

安岡 そう。そして芸術家としてはやはり真面目に人間とは何かを追求して、とことん破滅するまでに追求する純粋さを持って文学芸術をやる太宰治とか。石川啄木は有名ですし、宮沢賢治もそうでしょう。

 

― 宮沢賢治は偉大ですね。

 

安岡 そういう優秀なる東北の伝統。縄文のね。ある意味ではこう、優しさと素朴さを持つと同時に、やっぱりね。真面目で頑固で筋を通す。まあ、明治維新の時の会津藩なんていうのは別段、やられる理由がないわけですよ。孝明天皇から一番信頼されていて「逆賊」なんかにはとてもなりえない。むしろ薩摩・長州の方が「逆賊」なのに。でしょう?だから政治というのは「真実の裏側のことが良く起きる」と司馬遼太郎はね、「歴史の皮肉である」と書いています。『街道を行く』の中で。

 例えば会津藩主の松平容保は尊王家で、戊辰戦争後も明治天皇の父である孝明天皇の御しんかん、つまり天皇の直接直筆の手紙を持って、常に身に着けていたわけです。首にかけた竹筒の中に。そこには「皇室は貴方だけを頼りにしてる。貴方だけが武士(もののふ)の道を守っているのでよろしく頼むぞ」、って書いてあったわけですよ。これを生前身に着けながらいて、家族も知らなかったわけですよ。亡くなってからそれがそういうものだと分かったんですね。

 それを聞いた時の明治政府はそれを買い取ろうとしたわけです。何故かといえばそれが公にされるとどっちが「逆賊」か、って歴史的に明らかにされてしまう。しかし松平家はやんわりと断って、東京銀行の銀行の中に文書を預けて外に出さないようにした。そういうことがあったわけです。あんなものを出されたことには東京で威張っている薩長政府がまずいわけです。松平容保に対して逆賊の汚名を着せた証拠になるわけですから。つまり、戦争をやって勝つ方は「野蛮人」なんですよ。野蛮人だから勝つわけですよ。

 

― う~ん。。。

 

安岡 野蛮人でない方が負けるんですよ。人類史上、いつもそういうことが起きる。

 

― そう考えると切ない話ですね。

 

安岡 そう。だから我々の心にも野蛮なものがある。だから我々も野蛮人の子孫としていま生きているのは、野蛮人の子孫だからこそ生き残っているわけで、優しい民族の子孫なら生きていけていない。そういうことを自覚して、この心の中にある野蛮性というものをどう自覚してコントロールしていくか、それをきちんと洞察して行くのか、ということが我々の人間性の問題として重要な課題なんです。まあ、昔から私はそういっているわけですね。

 

― ええ。それでですね。まあ私もこういう機会ですから宮沢賢治とかの童話を読み返してみたりしたのですが、やっぱり宮沢賢治さんってすごい。さっき言ったモダンなところと、何か東北土着的なものを両方きちんと持っている感じがしたんです。

 

安岡 だって、宮沢一族の始祖は京都から移ってきた人たちですから。

 

― あ!そうなんですか。もともと土着じゃないんですね。

 

安岡 そう。

 

― ははあ。道理でねえ。

 

安岡 それは東北は、エミシの住む国だという所だけれども、実際にそこに都から行った人が風景が美しかったり、人情が暖かかったり、素朴であったりすることがあって、そういう情報が入ると平安貴族にとっては憧れの土地でもあったわけですね、心理的に。都人(みやこびと)にとってはね。目の上のタンコブであるのは政治的な意味だけど、文化的には憧れの土地であったという。そういうアンビバレンス(愛憎の相反性)があるわけです。だから京都から行ってそこで東北に土着した子孫の宮沢賢治は京都と東北とのアンビバレンスを感じざるを得ない。そして最後には虐げられた人々を助けるという形で東北の味方をする。

 彼が父親に反抗していくのも、やっぱり都への反抗を象徴しているかもしれないですね。

 

― 確かにそうかもしれません。

 

安岡 まあ、空想的かもしれませんけれども。。

 まあまあ、そんなことはどうでもいいんですが、このインタビューは宗教に関してですが、どう進めますか?

 

― ああ、そうですね。お話としては結構既に本題に入っている感じもしますけど、まず入口(いりぐち)的にですね。やっぱり世界三大宗教とか、キリスト教を中心にすれば2000年以上宗教というものがあって、それが今でも頑張っていますね。まぁ日本ではほとんど形ある宗教というものを普通の人たちは日常はあまり意識してないと思いますが、やはり今でも宗教的なものは間違いなくありますし、宗教戦争もありますよね。ですから、おそらく実際的なものを作ったり食べたりという所ではない、何か精神的な意味での「ホーム」というか。家のようなものとして宗教というものはやっぱり古くからあるんだろうなぁと思います。

 あと、僕は結構すごいなあと思ったんですけど、人間の祖先にあたるネアンデルタール人でしょうか。彼らはすでに死者に花をたむけるような痕跡があったとかいう話を聞きます。だから人間の祖先というのはその時から何らかその種の「こころ」というのか、感性というのか、もうすでに持っていたんだなということ。そういうのがなぜ、人間にとって必要だったのかという辺りから説明いただければと思うのです。

 

安岡 まあ、特別謎でもなんでもないんですけれども。人間だってねえ。地球上に290万種の生物がいて、生物学の知識ではね、その一つの種に過ぎないわけです。

 要するに人間が人間たる特徴は、他の動物は生まれたら1~2時間ですぐ立ち上がったりして、短期間で大人になれるんだけれど、人間だけは未熟児で生まれてきて1、2年も親が育児をしないとどうしようもない。死んでしまう。つまり「か弱き」「不安な」「無力な」状態で生まれてくるという、そういう特徴を持っているわけですね。そしてそこから大きくなっていくのだけども、自分を生んでくれた地球と自然は恵みをもたらすけれども、一方では、嵐や地震や災害を人間にもたらし、大変でしょ?そうすると、か弱き人間にとれば自然が物凄い力を持っている。まあ、太陽も月も、風も何もかもね。

 そうするといろんな食べ物やなにかを実らせてくれたり、他の動物を生ませてくれてそれを食料とする狩猟生活。これは縄文時代がそうでしょう?別段、人工的に何か畑作をしたわけじゃない。自然が実らせたものを、そのまま採って生きてきた。それは非常にありがたいから、自然に「自然信仰」というのが出来てくるわけです。つまり「自然はエライ!」と。自然によって我々は生かされている、と。同時に「怖い」と。地震や台風、雷で人間がやられる場合もある。だからそれが畏怖というものを感じさせられる。怖れと、畏敬の両方。アンビバレントな気持ち。そういうものを持っていたでしょう。そうするとか弱き人間から見れば、自然はいろんな力を持ってるぞ、と。その力を『精霊』と名づけたんです。『スピリット』と。そして自然の万物にそれが宿る、と。だから森にも何らか力のあるスピリットが宿っている。川の精、太陽や月も、動物や植物も。あらゆる生き物、雨にも風にも。あらゆる自然現象の中に。

 それから同時に、人間にもそういうものが宿るだろうと考える。あらゆる自然界に存在するものに精霊が宿る、と。そういう感覚をやっぱり持たざるを得なかった。それは人間が「か弱き存在」として生まれてきたことをどこかで本能的に知っていたからだと思いますね。つまり素朴さ、そういう所から『アニミズム』とのちのち言われるものが出てきた。そしてそういう力ある精霊と、もしコミュニケーションが取れればね。恵みだけを与えてくれて、何とか悪いのは与えないようにしてくれませんか?とお頼みすることも出来ると(笑)。うん。じゃあどうするかというと、精霊と交流すればいいわけです。

 

ー ああ~。

 

安岡 交流するにはどうしたらいいかというと、そういう交流する能力のある、呪術者が必要だ。今で言えば恐山にいるような人ですね。そういう人。そういうものを中心にして何らか交流の世界を作る。これが『シャーマニズム』になっていくわけです。『シャーマン』が出てきて、精霊と交流できる特別な能力のある人がいる。そして何か不幸があった時、雨が降らないとか、人間が病気になるとか、家畜が病気になるとか。そういう時にシャーマンが出てきて精霊にお願いしてそれを取り払ってもらう。そして特別な能力があるから「奇妙な超能力者だ」という感覚が周りの人にはあって、日頃は他の人々はシャーマンとはコミュニケーションをとらないんですよね、周りの人はね。

 

― ほお~。そうなんですか。

 

安岡 特別な人間としてね。だから何かあった時だけ出てくるという。 こういうのがシャーマンの特徴なんです。

 

― そういうことなんですねえ。

 

安岡 うん。つまり”変わった人”なんですよ。そして変わってない人間はちょっと集団を作っていろんな物ごとを決めていくために族長を決めて。これがのちのちの王様になってみたり、国家権力になっていくような土台、そういうものが出てくる。つまり政治的なリーダーと、宗教的なリーダーと、この2つが出てきたんですよ。だから政教分離がもともとの社会集団の原型なんです。

 そして、『トーテミズム』というのは、ある血縁部族が拝める神。例えば鷲を神にしているならば、インディアンは鷲を彫ってトーテムポールを立てるでしょ。鷲とか、鳥だとか。で、ちょうどそれは「家紋」みたいなものなんです。つまりこれは我が一族のシンボルだぞ、って。

 

― ああ~、はいはい。

 

安岡 それで分かるわけです。なぜそんなものでやったのかと言えばですね、同じ種族、血縁関係のある者同士で結婚したら不具者が生まれたり、種族が滅んでしまうからです。経験的に人間はそれを知って、それでトーテムの違う別の部族と結婚しなくてはいけない。そういう目安となった。

 そういう部族がだんだん集まってきて、民族を形成し、そしてやがて国家を形成していった。こういう流れになっていったわけです。だから未開社会がアニミズムや精霊信仰やシャーマンが出てきたり、トーテムでやっていた時は「政教分離」だった。ですから繰り返しになりますが、政教分離がもともと社会の原型なわけなんです。

 

― 先に政教分離あり、ですか?

 

安岡 それがのちのち政教一致に変化するからいろんな問題が起きてきたんです。

 

― はい。宗教国家みたいになっていく中でですね。

 

安岡 そう。いま世界はまさに政教一致で大混乱しているわけですね。本来、宗教は静かに信仰してね。個人的に心の中でやっていればいいのに宗教が口を出してくる。政治に。そしてお互いに利益が合致したらとんでもないことになる。カソリックが中世のね。魔女狩りだとか、いろんなことがあった。そしてカソリック教会が皇帝を認めるとか。その代わりにいろいろ寄付をもらうとか。そういう風にして賄賂や利権が横行し、利害が合致した。まあ、宗教や政治権力の腐敗や堕落ですね。それに反抗したのがルターの宗教改革でしょう?

 

― はい。そうですよねえ。

 

安岡 うん。「何やってんだ?」って。そうやって改革したはずなのに。ま~た、以前と同じことをやる(笑)。人間というのはおんなじことを繰り返しているわけですね。

 まあ、とにもかくにも、そういう政教分離の未開社会が出てきてね。人間はのんびりやっていた。自然に沿って。自然が与えてくれたものを大切にする。そういう心。だから縄文時代をイメージしてくれたらいいんです。

 そして穏やかに生きていた。しかし1万年前からメソポタミアやユーフラティス川を中心に農業、牧畜。つまり人類が定着生活をし、人々も増える。村が出来て町になり、そして都市になり、都市国家を作ってみんなで共同して定着しなくては農業が出来ないでしょう。こうなるとですね、政治と宗教の関係に変化が生じてくるわけですよ。つまり、いろんな都市が出来るといろんな氏族や部族や考え方やそれこそトーテムが違う。あるいはそれぞれの部族で神とする沢山の神がいたはずなんだけど、多神教的になっていたものをまとめるためにはみんなが勝手な神を考えていたら国家としてまとまらない。だから一つの神に統一して、一神教にして他の神は最高神よりも下の神に貶めればそれでまとまると。一神教が生まれたのはそういうようないきさつです。これは西洋で起きたことですね。

 

― まあ、おそらくいろんな部族というか、血族が少しずつ広がり部族的なものが沢山出来て、多神教だったのが、定住とかの形になってから都市国家や一神教が出来てくる、ということですね。

 

安岡 日本の神道だってそうですね。山の神、川の神、石の神、海の神など神様は800万。八百万(やおよろず)の神がいたでしょう。 

 ところがそれがだんだん集まって国家としてやる場合、天照大神を最高神にしないとまとまらない。俺はこの神しか信じない、って言ったら争いが起きるでしょう?アラーしか信じないとか、キリストしか信じないとか、エホバしか信じないとかなったら困る。混乱が生じる。

 

― ああ。やっぱりあれですかね?人間っていうのはそういう風に現代人だから思っちゃうんですけど、何かを信じてるということは争いのタネになるんでしょうかね?

 

安岡 だから最初の質問に答えますと、信じるということの原点はまず、一番最初に話したように、人は「か弱く生まれて」不安でね。そして周囲には猛獣がいたり、人間よりもはるかに強い動物がいたりして、やっとそういう中で生存しなくちゃいけなかった時に、自然の恵みもいただけるけど、脅威でもあった時に、何か人間は「力を得たい」、「無力でない」存在でありたい、「不安を感じない」人間でありたい、と。こう願うわけですね。それがやがて科学や技術の発展で槍や鉄砲や何かを作り出して今度はライオンよりも強くなるわけです。

 人間、元々の原点である自然では勝てないはずだけど、鉄砲だ、機関銃だ、ライフルだ、核爆弾だといって、武器や道具を使うことで万物よりも人間が一番力の強いものとなったのです。本来は「か弱き存在」だという謙虚さを失ってしまった。もう何でも出来る。万物も知る。自然界も支配できる。だから自然破壊も起きる。土地をガタガタやり、壊したりする。そういう風になって今に至るのがひと言で言えば人類の歴史でしょう。そのツケがいま来てるわけですね。まあ一足飛びに言えばそういうことになるんだけど。

 つまりまず、人間がなぜ信仰や宗教を必要としたかといえば、そこに人は生まれながら「無力」であり、その無力さを補うために精霊とかから何かから力を得たいと。力を得られたら安心じゃないかという心理があった。そういうことです。

 もうひとつは、人間は「死ぬ」という現象を目の当たりにするわけです。永遠に生き続けられないということが現実であるということを感じ始めた。すると今度は「ずっと生き続けたいな」という強い願望を持つ。それを精霊から得たいと。こういう「不老不死」を求める欲望が出てきた。五千年前にエジプトでそういう意味で「永遠に生きたい」と。その願望を元に宗教が始まったわけですね。だからミイラにして身体を残しておけばやがて魂は戻ってきて生き返る、と。ミイラ技術を導入したのは生命の「再生」のためです。不老不死の欲望のかたち。ということですね。

 それから次に、人間の心には攻撃性があって、ちょっと面白くないことがあると喧嘩やったり、殺し合ったりする。そういうものが他の動物もそうだけど、在る。それは人間が集団生活をしている時には害となる。そんな、自身の攻撃性を自分でコントロールできない人間も多いから、そういうのを抑制してくれる、絶対的な力を持った存在があれば抑制できるのではないかという願望が生まれた。それがモーゼの十戒じゃないけど神様が「こうしてはいけない」「ああしてはいけない」という倫理。そういうことを与えてくれたらそれに従う、という形で人間の攻撃性なりをコントロールしようということ。ね?つまり人間関係の要因で自然に信仰や宗教を必要とすることになったということですね。つまり神がいない時代では親殺しはするわ、親が子を殺すわ、兄弟殺しはするわ、つまりカインとアベルのような話ですね。

 我々の中にそういう攻撃性という悪の部分を抱えているわけです。だからそれはダメだという事にして、タブーにした。それから近親相姦のタブー。これはタブーにしなくてはいけない。そして道徳的なものでコントロールするには「あ、こいつの言うことを聞かなくちゃいけない」という神さまを設定する以外にはね。だからそういうものを作り出していく。先ほど言ったように各氏族それぞれの持っている、各部族が持っていて独立して存在していたそれぞれの神を最高神の下で統一させて、コントロールしようと。みんなバラバラなことを言っちゃあ困るわけですよ。国会で多数決で決めるというわけにも行きませんのでね。

 

― (笑)。

 

安岡 部族が集まってこの神にしましょうとか言うわけには行かないから。ね?まあそこで部族間では部族間の土地争いとか食糧争いとかいうことをしながら。中国の歴史を見れば殺し合ってやっと一つの統一王国が出来ていく。これは世界で起きていることですね。ただ、部族内での政治と経済との関係では族長が政治的なリーダーで、シャーマンが宗教的なリーダー。だからそれぞれ役割は分離してたわけですよ。

 

― はい、はい。

 

安岡 うん。それを統一しちゃっているのが王権国家の成立になる。政治的なリーダーが宗教的なリーダーを兼任して、「政教一致」になる。これが強大な王権。皇帝の帝国ですね。今で言う「帝国主義」ですね。いま、中東で起きているのは「世俗派」というのは政教分離。しかしイスラム原理主義は「政教一致」。未だにこの政教分離段階から政教一致段階へと変化してきたことに関しては、人類はどちらが適切か選択できかねている。こういう状況に大きく言ってあるんじゃないでしょうか。

 

― う~ん。そうですねえ。

 

安岡 だから西洋や東洋では宗教上の違いはこの各部族が持っていたそれぞれの神の違いであることは全世界共通しているんだけどもね。ただ日本とかインドもそうだけども、多神教でしょ。で、日本人というのは世界中の神様をもう、並列に並べて適当にあいまいに「信じて」矛盾を感じない天才だから。でしょ?

 

― あはは(笑)。確かに。上手いですよね。

 

安岡 だからと言ってどこの神だけを絶対的に信ずるなんていう風な狂信的な頑固な原理主義者はほとんど少ないのですよ。

 

― だから、分かりにくいんですよね。

 

安岡 だから日本人は「無宗教」と言われるわけですね。冠婚葬祭をみればわかりますよね。お寺でやったり(仏式)、神社でやったり(神道)、クリスマスや葬式を教会でやったり、外国人から見ればわけがわからんと見るのですよ。

(インタビュー・中編に続く)