出てきた意見は広げていきたい

 

加藤:なので、そういうときに真面目に話をするとか、教育するってどういうことなのか?ということは改めてやっぱり大事。それから、さっきの適応するとはどういうことか、社会に参加するというのはイコール働くことだけなのか?とか。まあツッ込めるんなら沢山出てきたほうがいいですし。で、出したら次が出てくればいいんですけど、出すものを引っ込めさせようみたいな話が多かったりとか。

 

 

 

杉本:これが足りない、あれが足りないという話ですね。

 

 

 

加藤:はい。足りないぞと。それよりももっと広げていけるような話をしたい。

 

 

 

杉本:いや、本当にそうですよね。それは本当に僕もここに来る前から思ってたことで。全くその通りだと思います。本当に広げていかなくちゃいけない、というのが今の課題ですよね。

 

 

 

加藤:で、自分も年をとってきたのかもしれないですけど、今までのスパンで見ると、働くことが適応というのは疑いようがない時期はあったんだけれども、いま考えてみると、例えば自分の親とか上の世代の姿を見てるときに、これ、失礼な言い方になるかもしれませんけど。「幸せって何なんだ?」と。

 

 

 

杉本:いや、本当最近思っています。父の終末期を見てて。

 

 

 

加藤:たとえば、退職後、友だちがいる人といない人がはっきりしますよね?役割が外れたときに残っているものって何なんだろう?とか。

 

 

 

杉本:本当にいろんなことを考えます。だから昔と違って、もうカリスマがカリスマとして終れないというか(笑)。60代くらいまでに栄華を誇っていた人が90まで生きると、もうただのお爺さんでしかなくなってしまう、みたいな。

 

 

 

加藤:ああ~。そうですね。はい。

 

 

 

杉本:そんな形で。カリスマ性を維持できないし、父性みたいなものを維持するのが本当に大変だなって。自分の父親ぼく、前から尊敬できなかったけど(苦笑)、今はねえ。何かこうちょっと自分も年をとって「大変だなあ」と。終末期をまだ元気というか、身体は良くないんだけど、頭はしっかりしてるから。大変だなあと思って。

 

 

 

加藤:やはり寿命が10年延びると言うのはそういうことですよね。

 

 

 

杉本:そう、そういうことですね。本当に。

 

 

 

加藤:何かそれはしみじみ感じます。

 

 

 

杉本:で、ぼくも前にマスコミで知っている人にまあ、ブログとかで近況を書いてしまっているので、「その話聞かせてくれない?」と。そのジャーナリストの人はぼくより3つ上なんですけど、自分の老後をそろそろ考えているんですけど、杉本さんは考えませんか?と言われて。僕はまだ全然意識できないんですよ。ただ両親の老いを、僕はずっと両親と同居してたから、「ああ、こういう風にやっぱり老いるんだな」って実感だけは非常に感じる。ただ自分自身が老いを迎えるときどうなるのだろう?というのは、ある程度否認も含めて「わからないなあ」という感じです。

 

 

 

加藤:うん。そうですね。何かこの、人の人生を、先の人の人生をみながらいろいろ考えることが増えてきましたね。

 

 

 

杉本:ああ。そうですか~。

 

 

 

加藤:今まではやはり、若い人のことを主に考えていて。

 

 

 

杉本:ああ。はいはいはい。

 

 

 

加藤:それが自分の親のことを考え出したりとか。

 

 

 

杉本:ええ。そうなんですよねえ。

 

 

 

加藤:それから自分の先生のこととか。見ていくと何が、本当に平凡な話で申し訳ないですが(苦笑)。何が幸せなのか。楽しい人生って何なんだろう?とか。

 

 

 

杉本:そうそうそう。だからその、「成長」というものは何なんだろうって。これは教育大学の平野先生と話したときもそうなんですけど、フロイトにしたって誰にしたってみんな若いときに親を亡くす時代だったから、登山に例えると、自分が登っているときに向こうは亡くなってくれるからその問題はないけど、いまは自分が下山しているときに、下山先で先に降りている親の死を見るので、これは新しいんだよ、って。

 

 

 

加藤:ああ~。それ、面白いですね。

 

 

 

杉本:まだその研究は始まったばっかりで、「俺もわからん」って(笑)言ってくれて。その時すごいホッとしたんですよ。「ああ、そっか。偉大な先生もまだわかんないだそこは」と(笑)。

 

 

 

加藤:わかんないですよね。

 

 

 

杉本:そこの次元ではオレも。同じ次元に立っているのかな、と思って。いや~。でも加藤先生ともそういう話が出来て。

 

 

 

先を見たときにいろいろなものが見えてくる

 

加藤:いやいや。でも実は一番考えるのはそこだと思います。今日お話してて、元々思ってたわけじゃないですけど、漠然と、ちょこちょこ頭の中にあったのは、やっぱり今までは若い人からだんだん自分は離れていく、みたいなことだったんですけど。ここから先を見たときに、いろんなものが見えてくるというか。それなのに、やっぱり「良い」ことはこれ、とか。ひとつに決められそうな気がしたり。で、自分もそれを探したりしちゃうんですよね。本当はたぶん親や上の世代も本当は幸せな人生だったかもしれないのに、勝手に子ども世代のこっち側が「いい人生だったのか?」とか余計なお世話を。だから勝手に私の方が不安に入って行っちゃってると思います。そういうことって良くないな、と思いますけど。

 

 

 

杉本:いや、僕もおんなじことを考えますからね。みな考える余地が生まれる、ということじゃないでしょうか。僕はどういう風な結論を出せるか分からないですけど、ただ「生老病死」の四苦、ということはやっぱり頭の中に浮かびます。

 

 

 

加藤:うん。

 

 

 

杉本:そこから始まってるというのか、仏教の※「四門出遊」と言いますかね。生きる苦しみで言えばひきこもりとか、不登校とかで苦しむというのはまさにそうだと思うし、非行に走った人、犯罪をやってしまった人。生きる苦しみを抱えてると思います。やっぱりあとは老いること。病い、そして最終的にはみんな訪れる死の問題っていうことで、みな悩み苦しむというのはこれ、やっぱりあるんだよなあというのは最近思いますね。

 

 

 

加藤:うん。確かに。

 

 

 

杉本:当事者もあるだろうし、周りでみてる僕らもなかなかしんどいですからね。正直いってね。だからこのしんどさを、何だろうな。「しんどい」と言えることも。一般のコミュニケーションの世界のなかにあったほうがいいと思うし、もう一歩進めていえば、「本当にしんどいんですか?」ということもね(苦笑)。より一歩進めると、はたしてそれを本当にしんどいのひと言で片付けて良いのか?ということも含めて出てくる「問い」なのかなぁ?って。だからひきこもりの当事者としてどうする?という関心はもちろんあるんですけど、いまの本当の関心事は、90になる親が終末期に近づいていると思うんですけど、そちらをやはり中心に考えてしまいますね。

 

 実際、常に判断をこっち側にゆだねられるので。「どうする」「どうする」って。医者とか、福祉関係者の人から。そうするととりあえずこちらも判断しなければいけないので(笑)。

 

 

 

加藤:うんうんうん。

 

 

 

杉本:そうすると立場や役割の逆転とかの場面が増えてくるので。どうしても認識のモードチェンジを自分の中でしなくちゃならない(苦笑)ということがあります。

 

 

 

加藤:なるほど、そういうことか。ああ、モードチェンジですごくしっくりきました。

 

 

 

杉本:すみません(笑)。ぼくが言いたい、ぼくの現状の愚痴を言っちゃったかな?と思います。

 

 

 

加藤:いやいやいや。でも切実ですよ、本当に。先ほど言ったように、これから先にいろいろなことが見えてくるのかな、と。このところ雑務に追われていた所でしたので、改めて振り返って考えることにもなってよかったですよ。

 

 

 

杉本:とんでもないことです。それでは時間のようです。本日はご多忙ななか、長時間お付き合いありがとうございました。

 

2016.9.30

(北海道大学大学院教育学研究院 子ども心理臨床センターにて)

※写真協力:吉川修司

 

※「四門出遊」ー釈迦(しゃか)が太子だったとき、王城の東西南北の4門から出遊して四つの出来事を見て出家の決意をしたこと。東門を出てつえにすがる老人を見て、生あれば老いがあるのを知り、西門を出て病人に会い、生あれば病があるを知り、南門を出て死人に会い、生あれば死があるのを知り、北門を出て高徳の僧に会い、出家修行の志を立てたという。

 

(加藤弘通さんのプロフィール)

中央大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学(2004年)、博士(心理学)
常葉学園短期大学保育科 講師(2004年)
静岡大学教育学部教育相談専修 准教授(2008年)
静岡大学大学院教育学研究科(教職大学院)准教授(2009年)
北海道大学大学院教育学研究院 准教授(2013年〜)

 

インタビュー後記(ブログ)

 

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