高みからの批判のための批判が増えてきた

 

加藤:いや、僕が一番苦しかったのは90年代後半とか、2000年前後だったんです。当時は、ひとつメタに立って批判するのが流行っていた。たとえば自由主義が行き詰ったときに自由主義って何でも認めるということのはずなのに、自由主義を認めない自由だけは認めないことが問題だとか・・・・。

 

 

 

杉本:ん?ん?ごめんなさい。

 

 

 

加藤:自由主義というのはどんな思想でも受け入れろと。その多様性を受け入れよということのはずだったのに、アメリカが例えばイスラム諸国に攻撃を仕掛けるときに自由主義を認めない自由は認めない、というすごい自己矛盾に陥りましたよね?あれはすごいショックな話で。いまの多様性の話もそうですけど、多様性って何でも認めるよと言っておきながら、「多様性を認めない多様性」は認めない、みたいな問題が起きてくる。それって話としては面白いんですけど、それを言うことに何の意味があるんだろうか?というのを一回抜きにしちゃった。たぶん突っ込むことが目的化しちゃって。

 

 

 

杉本:そうですね。あれは権力の発動ですもんね。

 

 

 

加藤:ええ。自由主義を認めない自由主義とはいかがなものか、という。そういう何かすごいことを最初は言っているように聞こえたんだけど、それも繰り返し繰り返し、どの話にもだいたい適用させていく話になっていくわけです。一個メタに立ってみると批判出来ちゃうという。そういう話がすごく溢れてきたときに、自分の意見を言うことがすごく不自由になってきているのがすごく感じました。それはさっきの話ではないですけど、こういうと、必ずこうじゃない部分があるよね、というものを探してきて、何か議論した気になる。もうこのゲームはいささか疲れたな、と(笑)。

 

 

 

杉本:ツイッターなんかやっててたぶん似たことが起きてると思います。「ポジション・トーク」何ていい方、最近あるじゃないですか。だからポジション・トークとされて言ってしまった途端に、もう完全にそのポジションにいるからこうだろうみたいな形できたりとか。仰られるとおり、必ず人間の論理は、まして短文とかFacebookみたいな場所で議論したり、それだけの「部分」を持ってきてリンクを貼って批判してみても、全体像なんて語りつくせないわけですよね。何時間も話したりとか、それこそ論文に書かないと(笑)。論文できっちり構築された論理を作らない限りなかなかできないことだと思うのですけど。とはいえ、ツイッター流行りでいろんな学者さんも含めてやってるから、そこには必ず反論の余地がある。短い文章ですから絶対出てくるわけで、そうするとそこに反応してくる人が出てきて、そこでまたぐるぐる、所謂「炎上」というかたちになっていく。僕もそれは本当に生産的じゃないなと思います。何で議論というものがこんなに生産的じゃないものになってきちゃったんだろう、って。

 

 

 

加藤:論文もたぶん同じなんだと思います。必ずどっかで突っ込まれていて、しかも今までは一応「アリーナ」があって。論文誌上でやりましょうというものがツイッターに持っていかれてて、自分の知らない所で(笑)。まあ僕はあまりないですけど。たぶんそういう経験された先生も多いと思いますね。

 

 

 

杉本:有名人の人なんかもそうですね。

 

 

 

加藤:そうです。で、じゃあそれで何か進歩があるのか?というと、そんなわけでもなくて。

 

 

 

杉本:あの、「爆問学問」ってあったじゃないですか。

 

 

 

加藤:はい。

 

 

 

杉本:ああいう番組って、普通学問の世界の人たちって分からないから、大衆性というか、一般の人たちに研究者の人たちってこういう風に人間的なんだよね、という形を太田光なんかがいろいろ突っ込んだりすることで、それが面白かったと思うんです。でもあれはアリーナじゃなくて、学問の世界にいる人たちを一般の人たちに知ってもらうことだと思うんですけど。最早ああいう次元をどんどん超えて(笑)。川田先生と話をしたときも、わたしが若いときは簡単に先生の研究室に入るのが怖かったと(笑)。こう、気楽に入ったらガツンとやられる意識がありましたという話をされていて。ちょっと教師への畏敬の念、みたいなものを感じるみたいなことがあったみたいですけど。もちろん今でもネットのバーチャルな世界では言いたい放題のことを何も関係ない人たちが有名人に仕掛けたりしても、実際にあったらやりあったりしないと思うんです。ただ、感性、感覚としてはずいぶんと平場でね。最近僕は自分のことを「半可通」だと思ってるんですけど(笑)。生半可な人たちがもうどんどん分かってる人の部分表出されただけのものを攻めて。もう議論を引き下げる、引き下げるみたいな形をやってるなぁという印象があるんですよ。それがちょっと良くない現象かなって思っているんですけど。

 

 

 

「分からない」が許されなくなってきた

 

加藤:ああ~。すごく個人的なことをいうと、研究って普通分かんなくなるんですよ。何かが「分かった」という積み重ねだけではなくて。続けていくとやっぱりよく分からんなあ、というのがまあ、正直な所なんですよね。

 

 

 

杉本:なるほど。

 

 

 

加藤:例えばよく「思春期って何ですか」って聞かれるんですけど、まあこういう風に語ることが出来ます、と。ということしかたぶん言えてないんです。で、本当は研究の世界というのは、「ここまでは分かった」ということは、「こっから先は分かってないよね」ということを共有していく世界なんです。ところが「分からない」ということが許さないというか。「分からないんだったら、言うんじゃねえ」とか。例えば質問に答えられなかったりすると、「それ、分かってないことなんです」っていちおう答えているつもりなのに。「中途半端だから心理学は使えない」みたいな話になってしまう(笑)。「う~ん?」という感じなんです。

 

 

 

杉本:いや、わかります。はい。

 

 

 

加藤:うん。だから「分からない」ということから一緒に考えましょうよ、みたいなことがすごく難しくなっちゃってて、すぐに一分ぐらいで話しなさい、と要求される(笑)。

 

 

 

杉本:(笑)。

 

 

 

加藤:学校の先生なんかも言い始めてる。時間が無いからだと思うんですけれども。何というか、「分からない」とかいうことを、一回ベースにして「じゃあ次に何をして行こうか」というベース作りが出来ないまま、もう目的地まで最短距離で連れてってくれ、みたいな話で。で、それに答えちゃう学者もけっこういると思うんですよ。それは僕、ちょっと言葉悪いかもしれませんけど、90年代の社会学者たちはそういうことに「処方せん」という言葉を使って言っちゃってた時期があると思うんですよね。実感とかを抜きにして。

 

 

 

杉本:うん、そうですね。まあテレビ的という意味でも学者さんがね。結局コメンテーターとして使われる、みたいな形になってやっぱり「答え」とか、本来は印象に過ぎないんだけど、それを「答え」にして、「はい、まとまりました」みたいな感じで。そういう傾向はあまり良くないなあと。今でも続いている現象ですけどね。

 

 

 

大学教師も個人がむき出しになっている感じがある

 

加藤:大学もたぶんそれに絡めとられてますね。すごく短期的に成果を分かりやすくかつ市民に還元できる、みたいな。どれだけ何を要求するんだよ、みたいなよく分からない仕組みが生まれ始めているので。

 

 

 

杉本:実利としての大学。よく聞きますよね。まあ正直、職業のための学校になりつつあると。昔の頃は、僕らの頃まだそうでしたけど、学問するためにあなたたちは来てるんだろう、って。僕の母校が言えるか?という話でもあるんだけど(笑)。まあ、権威を信じていた先生がまだけっこういらっしゃいましてですね。ですから、職業蔑視じゃないんだけど(笑)。もう、延々板書だけをしてるという先生も平気でいましたし、私は研究者なんだから研究のお裾分けしてやっているんだ、みたいな感じの人がまだいらっしゃいました。だけど、いまそれやっちゃったら全く通用しませんよね。

 

 

 

加藤:そうですね。

 

 

 

杉本:だからどれだけ就職というか、将来食べてくための学問をやってるのかという感じになってるでしょう?きっと学生さんに関しては。

 

 

 

加藤:そういう意味では個がむき出しになっている感じがありますよね。

 

 

 

杉本:個人がむき出し・・・?

 

 

 

加藤:つまり今の話というのは、過去は「教授」みたいな括りだと思うんですよ。

 

 

 

杉本:そうですね。

 

 

 

加藤:なので、教授にはいろいろな人がいるんだけど、たぶん今はあの授業はつまんないとか、あいつはダメだとかいうように、ひとりの人を、要するに大学の地位というか、共通のカテゴリーで語っているわけではなくて、個人を語っている。大学の先生たちも横のつながりは薄くなってますし、一人ひとりで実践現場とか社会との関わりをもつので、「大学として」というよりも、たぶん個人がむき出しになってる分、何か下手に期待に応えようという下心みたいなものが(苦笑)。本当はわかってないのに、とか私なんかは思っちゃうんですけど。割と簡単に専門から離れた問題にも答えてしまうとか。

 

 

 

杉本:それは研究者のかたもですか。

 

 

 

加藤:そうです。まだその問題ってけっこう論争的だし、そんなまだ回答が出ることじゃないのに、ざっくり斬っちゃうみたいなことがあって。まあ自分もそれをやる傾向があるので危険かなあと思うんですけど。でもそういう衝動に駆られちゃう雰囲気があるなと。

 

 

 

杉本:次元をぐ~んと下げちゃうんですけど。結局、僕の喋り口もそうなんですよ。「もやもや」としてるんですね。あの、常に反対側のものが、矛盾した考えが出てきて、「こうだ」と言っちゃうと、「いや待てよ」と(笑)。だから「仕事なんて」と言いつつ、「いや、仕事はやっぱり大事だ」なんてね。単純な部分で言うと。だからこのもやもやした自分の語り口ってきっと自分の中ではそう簡単に答えを出せないことって世の中に沢山ありすぎじゃない?ってどっかで思ってる。でも、僕のバイトはそんなコミュニケーション中心の世界で生きてませんから。仕事は単純労働なので、そのほうが僕としては日々妄想を繰り広げられて気楽なんですけどね。これがけっこうコミュニケーション中心の職場だったら大変だなあと。僕自身、物ごとを歯切れよく言えませんから。

 

 

 

加藤:そうですか?

 

 

 

杉本:言えませんね。おそらく「難しいな」と考えちゃうと思います。だから昔はもっと「どよ~ん」としていましたからね。何を言っても難しい。それを難しいと思って見てる他人がいるだろうなと思っちゃうから(笑)。口をつぐんじゃう、みたいなものだったと思います。

 

 

 

加藤:そうですか。何か発言しずらいですよね。何かこの5~6年すごく感じていますね。それまではお互いの「見解」で議論が出来たんですけど。今は、何か「教えろ」みたいな(笑)。教えられないとダメだ、みたいな感じですね。

 

 

 

杉本:ひと頃は学者さんが仮説を述べることを許容されたんじゃないですか?

 

 

 

加藤:う~ん。そうかもしれないですね。

 

 

 

杉本:その仮説を温めよう、みたいなところが。

 

 

 

加藤:うん、あったんです。

 

 

 

杉本:仮説が本論みたいな(笑)。「答え」みたいに思う人が増えてきて、あとで反証が出てきてね。それでまた違った、みたいな。よくあの、「怖い何とかの医学」みたいなね。そんな風になってしまって。あくまでも仮説なんですと言ってみんな、「うんそうだね」と言って聞いてくれるのかどうか。

 

 

 

加藤:(笑)逆だと思いますね。

 

 

 

杉本:(笑)そうすると先生たちも大変ですね。

 

 

 

加藤:やっぱり多様であるということは、同時に一般には当てはまらないことが多々あるわけなので、ツッコミやすくもなりますから。特に心理学の現象なんていうのはそうですね。でもそういう中でたぶん今までどおりでやってくのではなくて、どういう、それこそ戦略じゃないですけど。

 

 

 

杉本:大変ですねえ。

 

 

 

加藤:(笑)ああ、いえいえ。それはみなどうしてもそうだと思うんですね。何かやった途端にツッコミが入ると思うので。

 

 

 

杉本:そうそう。みんなが大変になって。

 

 

 

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