最初から心理学を志したわけではなかった

 

 

 

なるほどわかりました。ぜひ拝読したいと思います。で、なかなか難しいですよね(笑)。ワロンに関してどういう話をするのかというのは難しい。いろいろちょっと難しいと思ってどういう風なお話を展開していったらいいかなと思ったとき、やっぱりこの川田先生の研究室のプロフィールを読んだとき、これがわかりやすいかな、と。

 

 

 

川田:ははははは(笑)。

 

 

 

(笑)ちょっと読ませてもらっていいですか?

 

 

 

川田:はい。

 

 

 

「私の研究関心の基幹となる部分は個別的な自己認識と、共同性という一見矛盾したアスペクト(局面)を並存するヒトの精神構造(自己二重性)の発達過程を探求することです。ヒトという存在は、自己形成するにあたって、「他者になる」というプロセスを経由するという点に最大の特徴があると考えています。そして、その基本構造が、定型発達としてはおおむね生後3年の間につくられていくとみています。autism spectrum(自閉症)は定型発達とは異なる機能連関を媒介した発達経路の個性として理解され(その中にもさらに発達経路の多様性があるかもしれません)、個性に合わせた発達の見通し、情報は物理的・時間的環境が求められます。自己と他者の関係認識の形成が文化伝達ないし教育を可能にする重要な発達的側面であると考えています。

 

 これまでは新生児から幼児期を通した自然観察的研究、実験的研究を中心に、自閉症等の障がいをもつ子どもの発達研究も行ってきました。近年は研究のメインフィールドを幼稚園や保育所といった集団保育の場や子育て支援や多世代ひろばといった、より複雑で現実的な場に移し、そうした場でアレンジされる物理・空間的、時間的、コミュニケーション的な環境と、そこで遊び、生活し、成長していく子どもや人びとの発達のありようを統合的に理解するための理論的枠組みの検討を行っています」

 

 

 

川田:(笑)読んでいただくと何かよくわからないことを書いているなと(笑)。ははははは。

 

 

 

いやあ、なかなか難しいですけど、でもすごく大きなテーマを掲げていらっしゃるなと思いますね。

 

 

 

川田:そうですね。大きいですね。

 

 

 

なにかすごくミクロとマクロの両方を常に見ていかなくてはいけないという意味では大変な仕事なんだろうな、と私、思うんですけど。

 

 

 

川田:前半部分のところはやっぱり自分の博士論文までの重点的な仕事なんですよね。それが5,6年くらい前に博士論文(『乳児期における自己発達の原基的機制』としてナカニシヤ出版から刊行)を出したんですけど、で、いちおうそれを終えてから、あるいはもう博士論文をやっている途中からやっぱりこう、関心がもう少しマクロなほうに向くようになってですね。それでいま後半に書いているようなことを考えているのですけれども。

 

 

 

きっと僕が読める川田先生の論文や講演のPDF,あるいはこの*「子ども若者白書」に書かれている内容ってきっと前半に関するものが多いのかな、って思ったんですよね。

 

 

 

川田:そうですね。前半部分、まあ白書の最後の2ページくらいは。

 

 

 

ああ、そうですね。これは現実の保育。いまの保育に関する問題提起ですよね。

 

 

 

川田:そうですね。その意味では前半4ページがその前半部分になっていて、後半2ページはどちらかというと後半になっているという感じがしますね。あまり考えないで書いてますけど。

 

 元々あの、その辺に絡めてお話しすると最初に私が心理学の、発達研究に取り組んだその最初の研究というのはまあ、卒業論文だったんですけれども、それは障がいを持って小学校1年生に入ってきた男の子の1年間の事例研究だったんですね。

 

 

 

なるほど。

 

 

 

川田:で、私自身は元々大学は法学部に入って。

 

 

 

ああ~。そうなんですか。

 

 

 

川田:ええ。元々は法学部でそういう意味ではかなりマクロなことに関心がありました。

 

 

 

法律に一番最初は関心を持たれた?

 

 

 

川田:法律に関心があったというよりは世の中というか、社会について関心があったんだと思います。で、物を書くのは割と好きだったので、物を書くことを仕事にしたいと思っていたんですよね。で、高校生くらいから小説書いたりしたんですけれども、ある程度のところでこれは俺は才能ないなと思ったんですね。で、むしろ割とノンフィクション的なものを書いたときには人から褒めてもらうことがあって。自分は創作よりも何か取材したりしてそれを元にして言葉にするほうが向いているかもしれないと思ったんですね。それで報道とかジャーナリストとか、そっちの仕事がしてみたいなと思ったりしたんですね。自分の時代だったら本田勝一とか、ああいった人たちがまだ現役で。久野収さんとか。

 

 

 

ああでも、けっこう先生はまだ若いのに、という気もしますけど(笑)。

 

 

 

川田:(笑)たしかにすごい年配のかたがたですね。でもまだあの当時現役ですよね。それでそういった人たちも意識して、何かそういう報道の仕事を、と思ったんです。で、やっぱり政治とか関心があったので法学部行きましたが、あまり大学には寄りつかず(苦笑)、ほとんど大学には行かずにいたんですけどね。

 

 

 

(笑)その頃は何をされていたんですか?大学に行ってないときは。

 

 

 

川田:大学へ行ってないときはほとんど何でしょう?僕は山を登ったりすることがすごい好きで、でも中学高校はバレーボールやってたんですけど、あまり人と何かを一緒にやるのに疲れてしまって。大学に入ったらもう誰にも気を遣わない生活をしたいと思ったんですよね。だから大学入ってからはもう、ほとんどひとりであらゆることをやってました。ごく一部の2,3人くらいの気の合う人と同人誌作ったりとかそんなことはやってましたけど、でも基本的にはひとりでほとんどやってましたね。それで山に登ったり、そういうのをひとりでやってたんですけど。なので大学行ってないときは山へ行ったり、登山用品店に入り浸ったり、そこで山男のおじちゃんと話しながら時間潰したり。それから喫茶店行っては一日中本を読んでるとか。まあそういう生活をしてましたね。

 

 

 

割とモラトリアム的な?

 

 

 

川田:ああ。ものすごく典型的なモラトリアムだと思います。それでまあいろいろあって2年生から3年生になるときに一回休学をして。で、いろんなところを旅して歩いたんです。海外へ行ってアラスカに行ってみたりとか。まあその辺は話しだすといろいろ長いので(笑)、そうやっていろいろやってですね。それで何か吹っ切れた感じがあったんですね。

 

 何か2年くらい大学ろくに行かなくて、それで休学していろいろ放浪して、それで大学に戻ってきて。3年生になるところだったんで、ゼミに入るということになって。そこで「法社会学」という法が社会にどう機能しているかということを勉強するような、まあ社会学ですね。法の社会学。そういうことをするゼミに入りました。そこで非常にいい先生と仲間に出会えたんですけれども。3年生くらいのときどういうきっかけだったか忘れましたけど、大学の掲示板に何か貼り紙がしてあって。そこに「私を助けてください」と書いてあったんですよ。何だろう?と思ってよく見たら重度障がいの肢体不自由、脳性マヒですね。脳性マヒの重度の人なんですけど、その人が全て介助が必要です、と。だけど親の手を借りずに地域で自立生活をしたいんです、と。で、「あなたの手が必要です」と書いてあって。当時はまだヒマなので(笑)。何か役に立つかなと思いまして。そこから丸2年くらいはどっぷり成人介助のボランティアをしていました。そこからまた大学行ってないんですけど(笑)。もうゼミにしか行かなくて。1、2年生のときよりはかなりその意味では自分としては能動性のある形で大学には行かずに、重度障がいの、それも異性介助なんです。その人はそれを、自分をある種の実験台にして、介助のいろんなバリアというものを、その意味でバリアフリーをやろうとしていた人です。いまもあるのかわかりませんけど、東京世田谷区の「HANDS世田谷」という割とラディカルな、いまでいうNPOみたいなところがありまして。地域の障がい者自立支援というのをかなり早い段階からやっていたんですよ。そこの代表をやっていた人なんですけれども。その女性ひとりのために学生とか、主婦とか、いろんなボランティアの人が100人ついていて、その100人がすべてシフトで、とにかく24時間365日全介助するということをやっていたんですよね。で、いま思い出すと、私が介助のボランティアをしていた人たちがですね。そのかたを含め、重い障がいを持つ人たちが「自立生活」と言ってやってたんですよ。「自立生活」って。自分からすると当時20歳くらいの自分も自立ということを考えますよ。その当時自分が考えていた自立というのは、誰にも助けを受けないということ。それが自立生活だと思ってたんですよね。

 

 

 

誰の助けもいらないということですか。

 

 

 

川田:そうです。親からも経済的に自立する。それから社会の中で誰かから助けてもらわなくてもちゃんと判断できるとか。そういう風に人の助けをいらなくなって、自分で何でも出来るようになるということが自立なのだと思っていて。

 

 

 

 

 

「自立」をめぐる問い直し

 

 

 

今でもみんなそう思いますよね。

 

 

 

川田:ええ。ところが自分がボランティアやってた人たちというのは、本当に排泄の世話から食事の世話から、入浴からそれこそ本当に乳児がしてもらうような世話も全部人の手を借りなければ生活ができないわけです。それでも彼ら彼女らは「自立生活」と言っていて、そこで「自立とは何か」と。自立ってどういうことなんだろう?みたいな、根本的な自分の中で「問い直し」みたいなものが始まったんだと思います。やっぱりその時にいろいろ物を考えたり、物を読んだり、そういう人たちと一緒に自立とは何か?みたいなことを議論しました。障がいをもっている人たちと実際に。で、何かね、人の助けはいらない、自分で何でも出来るということが自立ではどうも無いぞと。それは極めて孤独なことで。要するに何というのかな?「他者が無くなる」ということを意味するみたいだと。誰の助けにもならないということは、他者というものを喪失するに過ぎないと。

 

 で、そこからやっぱり自ずと自分と他者というものの関係性の変容みたいなもの、その「質的な変化」というものが自立には方向性はいろいろあるにしても、考えるときに必要なのだということ。つまり「他者なき自己」になることが自立では無いんだ、みたいなことをどうもおぼろげながら考えるようになったんですね。で、やっぱりその中で障がいを持ったかたがたと出会ったあと心理学のほうに。いろいろそういう経験もあって、もう一回改めて人間について考えたいと思うようになりました。で、分野をいろいろ探して悩んだ結果、心理学に向かうんですけれど、やっぱり最初の誕生の所から人間というものについて考えたいと思ったんですよね。新生児から。それで発達心理学の世界に行って。で、赤ちゃんのことを勉強しながら、新生児の勉強とか、新生児の家庭に行ったりして、発達研究とかをさせてもらいながら一方では昼間働いて。夜学に行ってたんですけれども。夜学に行って、昼間働こうと思ったんですね。それで小学校で募集してた障がい児の介助という仕事があって。で、今度はボランティアでなく、嘱託の職員としてその仕事を1年間したんですよ。

 

 一方では赤ちゃんの研究させてもらいながら、一方で現場で毎日小学1年生の子どもで知的な障がいと身体の障がいを両方持っている子なんですけど。その子が1年間の中でこう、変化していくわけですけども。成長していく中でたまたまその子は発達的に2歳くらいの所で小学校に入ってきたんですね。普通学級へ親の希望もあって入るんですが、でも知的な発達的には2歳くらい。それで当然なかなか授業に入っていけませんから。その子のためにいろいろ教材とか考えたりするのですけども。でもその子が一年間ですごく大きく集団の中で成長していくんです。その過程がワロンの議論をきれいになぞるように変化して行っていると私には読めたんですね。毎日記録をつけていて。で、その時ワロンを読んでたり、ピアジェを読んでたり、いろいろしてたんですけども。やっぱりワロン、特に「一人二役対話」とかですね。「交代やりとり遊び」とか、そういうものがまさにその子の中で展開されていくのを見て、やっぱり非常に感動したんですよ。それで卒業論文はその子の1年間の記録を、毎日つけてきた記録を元にして、ワロンの理論でその子の1年間の成長というものを実証するという意味もあるし、その子の1年を理論によって光を当てて、その中に筋道を見だすという。そういうものを卒業論文の中で書いたんですよね。なので、「何を研究したかったのか」という研究テーマまで明確ではなかったと思うんですけど、結局は先ほど成人の介助の中で自立ということを考えたりしたこと、それから子どもと出会ってその子どもがまさに1年間の中で自分と他者との関係をさまざまに変容させていくという、そのさま。それらに出会って、自他関係、「自己と他者の関係の変容で発達を捉える」というようなこと。そういうテーマを自分は追及したいんだなあという風に思ったんですよね。それでいちおう博士論文まではそれでやってきたということがあるんです。だからあらかじめテーマを持っていたというより、やっぱり人と出会って、むしろ何か自分の中に潜在的に眠っていたテーマがだんだん明確になってきて、そこに少しずつ言葉が与えられて輪郭を持ってきたということだと思います。

 

 

 

実際にそういう対象の人とも出会って、ということなんですね。だからワロンの考えも観念としてでなく、先ほど思弁的というお話もありましたけど、思弁的に読んでるわけではなくて、やっぱり実証できるものと思われたんですね。

 

 

 

川田:そうですね。ワロン自身はたぶん障がい児の、先ほど言った、『アンファン・トゥルブラン』とか、障がいを持った子どもの診察とか、診療はしていたと思うんですけど、ピアジェみたいに健康な子どもをワロン自身は確か自分に子どもが出来なかったんじゃないでしょうか。結婚はしていましたが。ですからいわゆる健康な子どもというか、ピアジェのように健康な子どもが日々発達していくということを間近に見る機会はなかったんじゃないかという気はします。なのでワロンの本の中でけっこう子ども事例とか載ってますけども、よく見るとあれは殆どが引用です。

 

 

 

ああ~、ほかの研究者の。

 

 

 

川田:ほかの研究者がした観察の引用なんです。ワロン自身が観察した子どもじゃないことが多いんですよね。ただ、あまたあるいろんな観察記録をワロンの視点で集めて、ワロンの視点で並べているんですよね。なのでその視点の取り方というのはたぶんすごく参考になったと思います。

 

 

 

逆に言うと、そういう風な自分の視点で研究素材を集めるというのはやっぱりあるということですね?

 

 

 

川田:そうだと思いますね。

 

 

 

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