「覚悟」か「諦め」か

 

杉本:ひきこもりぐらいわかりにくい世界はないのに。だからこそ、当事者も研究者の人も学ぶっていうか、考える余地がある領域なんだけど。うん、その深い方向へ行かない、っていうかねえ。

 

関水:はい。

 

杉本:ここはちょっと時間も必要だし、考える部分も必要になってくるから、ちょっとやっかいだから、そこら辺はまあ、うまく消費できるものにしていこうみたいな。

 

関水:うん。

 

杉本:ここまで言うと問題あるかなあ?どうなのかなあ(笑)。

 

関水:(笑)

 

杉本:ただやっぱり僕は、屈折、葛藤、あるいは今でも引きずってるっていうもの。そこからは逃げられないなあっていう風に思ってます。誰かも本の中でも語ってましたね、一生背負っていかないと、と。そんな感じのものになるだろうみたいなこと。それは個性としてもはや、みたいなね。

 

関水:うん。

 

杉本:やはりそういうもんじゃないかなあ。

 

関水:そこまでの覚悟するところの深みまで。たどり着くのはなかなか大変でしょうけど。

 

杉本:ねえ?本書でも「覚悟」って言葉ありましたけど、でも、それはちょっと、その言葉を使った石川良子さんへの反論じゃなく、補充的な意見でしょうけど、要素として覚悟じゃなくって「諦め」じゃないか、っていうのが関水さんのご意見。

 

関水:ああ。

 

杉本:そのように表現されていますよね。

 

関水:はい。

 

杉本:まあ、どちらも間違ってないんだろうなと。

 

関水:そうですね。

 

杉本:生きることに決めた、っていうことに対する認識の表現ですかね。

 

関水:確かに、「覚悟」と「諦め」って、本当に表現の違いでしかないかもしれない。ただ、ひとつ強調したかったのは、単に頭で考えて結論にたどり着くというよりは、やっぱり「腑に落ちる」みたいな言葉で表現される身体性がみんなあるっていうのはすごく感じているんですよ。

 

杉本:うん。

 

関水:それがやっぱり、いま仰った、それを抱えて生きていくしかないんだっていう、その覚悟と言ってもいいのかもしれないけど。こういう風に生きていくしかないんだっていうことは、ほかの生き方は諦めたっていうことでもあると思うんです。それは身体レベルで起きているということ。

 

杉本:そこがね、僕自身はどうなんだろうって、自分で悩むんですよ。「それでいい」っていうのが、恐らく丸山さんとか勝山さんとか林さん。

 

関水:そうですね。杉本さんも仰ってましたけど、当事者の立ち位置って理解するのに時間かかるはずって、時間のことを仰ったじゃないですか。当事者にとっても自分の立ち位置を受け入れていくには時間がかかると。

 

杉本:それが自然なことだと思うんですよね。

 

関水:僕もそう思うんです。その腑に落ちていく感覚って、さっきの身体性ってことについても、時間とともに少しずつ自分の生き方ってのはこういうものなんだ、っていう風に腑に落ちていく。だから、そのようになっていくプロセス。時間の流れの中で起きていることだという視点はやはり必要だと思います。ですから丸山さんなんかも、ひきこもったことを自分が肯定してるかというと、ひきこもって良かったっていえるかと言うと、すごく「そこは葛藤がある」という言い方をされている。

 

杉本:そうなんですねぇ。

 

関水:それが印象的で。

 

杉本:うん。

 

関水:やっぱりそこって、そう簡単には腑に落ち切らない部分がどうしてもあるってことだと思うんです。

 

杉本:そうですね。

 

関水:それはやっぱり環境もありますよね。腑に落ちてもいいんだ、という風に思える環境と、そうじゃない、そう思いにくい環境もあると思うので、それはさっき杉本さんも言ってた、その社会的条件も含めてひきこもるっていうことを、どう考えていくのかってことにもつながるのかなあと思うんですけど。今ちょっと思いつきで喋ってますが (笑)

 

杉本:(笑)ええ。

 

関水:自分の身体のあり方とかと向き合う。そういう時間というのがいま、持ちにくいのかなあというのは思うことではありますね。

 

杉本:いやでも本当に、ひきこもりの人が自分の身体性みたいなものに向き合うっていう発想を、まあ、いろんな形で用いるって人は本当に意外とそんなに多くはないんじゃないかっていう風に思うんですね。自分自身も含めてですけど。ですから、ある意味では自分もまだ学んでる過程っていう感じです。だから本当にこういう話ができることで、自分の中で、なるほどいま自分のいる土壌、プロセスってこんな感じかな、みたいなことを少しずつ考えてる途上で。

 

関水:うん。

 

 

 

代弁の難しさ

 

杉本:それでは最後に。関水さんの方から、本に関しての全体的な思いといいますか、これだけは言いたいというのがあれば。

 

関水:ああ(笑)。

 

杉本:あの~(笑)…ね?

 

関水:そうですね、いや本当に…。

 

杉本:できあがった本に関しての感想としてはどんな風に思っていますか?

 

関水:自分の話をするのが本当に苦手なんです。ですから、つい人からこう言われたとか誰がこう言っていたという話をしてしまうんですけど。勝山さんからも、引用が多いって指摘されました(笑)。自分の意見もあるんだろうけど、人の言葉で語らせてる、みたいなことを言われて。

 

杉本:ふ~む。なかなか手厳しい。

 

関水:そのように言われて、まあ、確かにそうかなと思って。いろいろちょっと自分の中で考えてるんですけど。当事者の代弁をすることに対して、ちょっと腰が引けてるっていうのは、正直自分でも思っていて。

 

杉本:いまの話で聞こうと思ったことが浮かんだんですけど、いいですか?

 

関水:あっ、はい。

 

杉本:つまり、林さんなどは、当事者の代弁をするってことに対しては、究極的には「できない」っていうスタンスじゃないですか。

 

関水:はい。

 

杉本:関水さんも代弁はできないっていうスタンスなんじゃないかなと思っていたんですけど(笑)。

 

関水:そうですね。でも結局、代弁してることになるじゃないですか。この本も。結局インタビュー・データという形で当事者の声を載せてるけど。

 

杉本:ええ。

 

関水:それも、僕が聞かせてもらったものを僕の文脈で載せてるので、インタビューに語らせているという面もある。それって、なんというのかな。それはあくまでこの本の文脈で切り取った本人の語りであって、本人が本人として語っているわけではないので。やっぱり本人のことは本人が語った方がいいんだろうなっていうものはあるんですよね。

 

杉本:う~ん。でも多面的な表現のほうがいいと思いますのでねえ。

 

関水:それはそうですね。本人が語り切れない部分というか、本人の語りではない部分で、こういう見方ができるという部分に着目していただいて、第二章が良かったと言っていただいたのはとても嬉しかったです。

 

杉本:本当にそうだと思うんですよ。まだまだ聞きたいことがあったんですけど、非常な大著で、いろんな角度から考えられる本なので、また機会があれば別の角度からもお話しを伺わせていただければと思います。今後の新しい視点からの研究にも注目しています。どうもありがとうございました。

 

関水:ありがとうございました。

 

 

 

2017.2.21

 

(神奈川県民センターにて)

 

石川良子 社会学者。松山大学准教授。主著『ひきこもりの<ゴール> 「就労」でもなく「対人関係」でもなく』(青弓社 2007

 

(アンソニー・)ギデンズ イギリスの社会学者。構造化理論、再帰的近代化論で知られる。著書多数。


「新ひきこもりについて考える会」 ひきこもりという問題に関心を持つ人たちが定期的に集って話しあう会。一月から一月半の割合で例会、読書会を行っている。“当事者・親・援助者”など異なる立場にある者が同じ場に集まって話ができるのが特徴。三者がお互いの立場を越えて直に話しあう機会が大事であるという理念でセッテングされている。「考える会」の定例会は主に東京都内、「読書会」は主に横浜市中心部で行われている。

 

ドミナント・ストーリー もともとは臨床心理学で言われてきた概念で、クライアントが自己についての多数の物語を持ち得ることを前提に、通常は治療対象となるような「物語」に対して使われる。ただし概念そのものの意味として言えば、ある物語がドミナントストーリーであることについてはプラスの評価もマイナスの評価もなく、その人にとっての主要な自己像のようなものが、ドミナントストーリーといえる。

 

「同化主義」 語源としては「同化政策」を起源とし、それは力を持つ民族が、弱い民族(もしくは集団)に対して自らの文化伝統を受け入れるよう強いる政策を言う。本書においては、人の価値観、かんがえかた、生き方になどについて、「かくあるべき」という基準を設け、その基準に同化することを良しとする考え方、の意味で用いられている。

 

丸山康彦 本ホームページインタビュー(2016.13.31参照乞う。

 

林恭子  本ホームページインタビュー(2016.7,23参照乞う。

 

 

 <関水徹平さん>

1981年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。
早稲田大学文学学術院助手、同非常勤講師を経て、現在、立正大学社会福祉学部専任講師。

 

(インタビュー後記)

 

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