研究者として衝き動かされているもの

 

杉本:現状がどういうところにあるかっていうことですよね。けっきょく当事者視点であるとか、そこは現場の声から突き動かされている先生の問題意識なんだろうと思うんですけど。

 

金子:何がモチベーションになっているかということですか?

 

杉本:そうですね。

 

金子:元々の出発点が先ほど言った社会政策の理論研究、貧困の概念の研究、そして対象論みたいなものとか、「福祉国家の政策理念」といったものが中心だったので。その反省もあるかもしれないですね。まさに逆だったんです。パターナリスティックな視点の研究スタイルだったんです、僕自身が。

 

杉本:ああ、最初は……。

 

金子:はい。現場との接点をほとんど持っていませんでしたし、当事者との関わりもほぼ無かったですし。でも、「自分が当事者だ」くらいの感覚はあったんですけどね。庶民というアイデンティティ。イギリスの福祉の本をわりと若いうちから読んでいたから、その影響もあって、学部生の頃から自分は労働者階級で、福祉の対象として考えていい位置にいるんだという感覚はあったんですけどね。その一方で研究手法は社会政策学の古いスタイルだったので、すごく権威的な議論が多くて。

 

杉本:昔の社会政策学というのはそういう感じだったんですか?

 

金子:少なくとも日本ではそうですね。で、そうではないイギリス流の社会政策学の視点に感動して、それが大事だなと思っていることが大きいですね。

 

杉本:その出会い方は大学院に入ってからですか。

 

金子:そうですね。

 

杉本:大学までは行政が考える社会政策みたいなもの。先生のアイデンティティはイギリスで言えば労働者階級の自分なんだという。今風に言えば社会的排除の側に立たされるかもしれない、福祉の対象になってしまうかもしれないと思いつつ、学んでいることは行政側のパターナリスティックな社会政策議論だったのが、大学院で社本先生と出会って、イギリスから運ばれてきた新しい、当事者の権利に出会って感動したと。

 

金子:まとめればそういうことです。

 

杉本:先生のお話を聞くとイギリスの福祉が学びの原点かなと。わたしも社会福祉士の資格だけは持っているんですけど、社会福祉原論とかを学ぶと当然イギリスのベバリッジ報告が重要。そこから遡って救貧制度から始まるところから、セツルメント運動があり、労働者運動がありという形を経て、ベバリッジ報告が出てきて。大戦が終わった後に労働党が政権を握り、それをもとに社会民主主義的な国民皆医療であるとか、いろいろな国営化をしていった。それがいちばん古い社会福祉の光というか。良かったという話ですけれど。それはややパターナリスティックな側面もあったと。

 

 

 

煮詰める前に政策に利用された言葉たち

 

杉本:いろいろとそういう中で、右であれ左であれ権威主義的なものに対する、新しい戦後生まれ世代の対抗理論みたいなものが芽が開いたのがおそらく80年代終わりから90年代頃なのでしょうね。

 

金子:そんな気がします。

 

杉本:例えばどんな理論家の人がいらっしゃったんでしょう。

 

金子:当時はポストモダンとか言ってましたね。

 

杉本:そこら辺だとフランスの人が多いんじゃないですか。

 

金子:そうですね。イギリス以外のものをよく読まされました。M・フーコーとか。

 

杉本:あぁ、はい。私は難しくては読んだことないですが ()。でも何となく名前は頻繁に出てくる人ですね。

 

金子:フランスやイタリアのものを読みましたね、分かったふりをして。

 

杉本:それでイギリスの運動の中にも、社会思想家というのですかね、そういう人たちの議論を受け止めたというか。

 

金子:はい、そうですね。90年くらいに日本でポストモダンと呼ばれていたような近代批判みたいな視点を持った社会科学や福祉の研究者が現れてきて、その人たちが書き始めていました。

 

杉本:例えば社会的排除であるとか関係性の貧困という定義も、そこら辺から生まれてきた議論なんですか?

 

金子:貧困はどうだろう……。社会的排除は多義的な概念ですね。

 

杉本:おそらくそういったものは90年代の真ん中のブレア政権の頃に政権自体の知的なところを支えたアンソニー・ギデンズとか、そういった人が言語化したのか…。

 

金子:どうだろう?主流派のような気がしますけどね。主流派というのは政府側というか、従来どおりの統治者側の議論に聞こえてしまいますけどね。ブレアとかが言う、そういったものは。

 

杉本:社会的排除という言葉もでしょうか?けっこうそういった辺りのことが、ひきこもりを考えてきた自分としては「同じ同じ」と思って読んだんですけど。先生はその辺りはけっこう意識的に広義の貧困の意味合いで書かれていらっしゃるようなんですけど。

 

金子:ああ、そう言われてみれば、排除論は経済的な排除だけではなくて、貧困というより「承認」の問題だという言い方で議論されはじめたものだ、ともいえますね。

 

杉本:そうでしたね、考えてみると。

 

金子:だから実はアイデンティティの問題ですよね。元々はそうだったと思うんですけど、あっという間に政策に取り込まれてしまった。包摂とかインクルージョンという言い方で。

 

杉本:けっきょく就労支援であるとか、ワークフェアと言われるところに回収されてしまったと。言葉を煮詰める前に。

 

金子:すごいスピードで。

 

杉本:そういう意味で保守的だということですね。政治に取り込む言葉で、政治の側が盛んに言語化して、簡単に言ってしまえば「働け」と。

 

金子:排除に対して包摂が必要で、「労働市場に包摂する」ということになりましたね。

 

杉本:社会に包摂というよりは労働市場に包摂するということなんですね。包摂という言葉はキレイなんですけどね。どうなんだろう?ギデンズとか、そう考えるとけっこう罪深いのかな?()。みんな言いますよね、日本の元民主党を支えていた人たちとか。

 

金子:そうですね。

 

杉本:ギデンズを引き合いに出して。そうすると「新しい公共」という言葉も同じだったのかな。一向に定着しないままで終わっちゃいましたけど。けっきょくそう考えると、市場主義経済、市場の論理で。分配の議論からいくと分配できる分は限られてますよと。その前の日本で言えば古くは中曽根政権とか、イギリスではサッチャー政権であるとか、アメリカではレーガン政権がありましたね。市場に任せればいいという主義の第一世代みたいな人たち。そういうことに対するアンチテーゼではなくて、その方向性自体は変えないけれど・・・。

 

金子:どうしてもそういう話になっちゃいますね。

 

杉本:ただ痛みがダイレクトに来るから、バンソウコウを貼るような意味で、「包摂」という言葉が。貧困という言葉は使いたくないから、社会的排除とか関係性とか孤立、無縁というようなことを繋がりという言葉に変えるために。NPOとかボランティアとか民間といったところに任せて。これも新しい公共みたいな形ですけど、第三の道と言ってみたりして。そして失業者や貧困者を何とか労働市場に呼び戻せるようにしようとしたと。で、その結果は大勢を巻き込めなかったという結論に達しちゃったんでしょうかね。

 

 

 

生産と賃金を切り離すべき

 

金子:まさに今も続いてますよね。

 

杉本:日本、まだやってますもんね。苦しそうに。

 

金子:ベーシックインカムの議論も完全にそうなっちゃってますよね。元々はどういうマイノリティであっても、どういう人であっても、最低限の生活保障をするべきだというところから始まった給付の構想だと思うんですけど。公的扶助に変わる新しいセーフティネットという議論で左派はとらえてたはずです。元々の議論がどこにあるのかは難しいですが、最近、日本で言われるベーシックインカム論は、少ない財政をどう分配するかと考えたとき、効率よく給付額を抑えながら手当を出す方法のひとつとして提案されてますよね。

 

杉本:先生、端的に貧困なんですけどね。誰でもなり得るし、かつ看過できないくらい。例えば貧困の層が分厚くなるとか、あるいはバンソウコウを貼るような、あるいはなだめながら何ヶ月かの就労支援を受けてお金は10万円くらいあげるから勉強してね、居場所も少しずつ作るようにするから、と。でもお金はそんなに出せないからボランティア労働みたいな形とか対人援助職とかにみんな行って、苦しんでいるみたいなノリなんだけど。こういうやり方はもう全然続かないというように思いますか?

 

金子:最初はそう思っていました。政府が生活困窮者自立支援と言い始めたときは割と批判的だったんですけど。始まったら、みんなそちらに乗っかっていって、最近ではもはや批判すべき状況ではなくなってきているなと思ってます。そういう支援の形ももちろんありだとは思います。

 

杉本:ただ逆に言うとチョイスもないのかなと思いませんか。

 

金子:あぁ、そうですね。むしろ選択肢は無くなってきてますね。経済的な保障という話がほとんど無くなってしまって、削減する一方になってしまっているので。もはや「自立支援」しかない。

 

杉本:けっきょくこの論理を言わないところで話をするから混乱になってしまうんですけど、要は資本主義が生むものですね。貧困は……。

 

金子:うん。

 

杉本:もちろん資本主義しか貧困を生まないという話じゃないですよ。どんな社会でも貧困は生まれると思うんですけど。ただ、より抜本的な問題はグローバリズム的な経済、自由主義的な経済みたいなものが加速すればするほど、こぼれ落ちる人たちが増える。それを現状では包摂理論であるとか困窮者支援とかでやったりしていて。これは否定できないある種の力を持っているんだけど。でも10年、20年、30年と先を見たら、はたしてどうなるかというと。家族を持つかもしれないけれど、僕らが1980年代くらいまで持っていた中流幻想みたいなものはちょっと持ち得ないような気がするんです。いくら一生懸命、奨学金を払って良い大学に行ったとしても。だって東大を出て、一流広告会社に勤務しても過剰労働で自殺してしまう人が出てきちゃっているわけですから。すごく有為な人材でさえ使い捨てられるというようなことがいま、起きているわけですよね。そうするとやはり抜本的に考え直さなくちゃならないのじゃないかと思うんですけど。

 

金子:うん、そうですね。そうするとやはりベーシックインカムの話になるんじゃないですか。「生産と賃金を切り離す」という。

 

杉本:なるほどね。僕もベーシックインカムは大賛成で、スティグマも無くなれば、それでいいと思っているし、もっとシンプルなフラットな人間関係を作るためにもいいと思っているんですが。けっきょく政治力学の話になってしまって、絶対にそんなことは嫌がるじゃないですか。それをどうやって崩せるんだろうというのがあるんですけど。

 

金子:政策の話でいえば、わりと僕はすごい長期スパンで、ありきたりですけどもちょっとずつ穴を埋めていって、気が付いてみたら出来上がっていたというビジョンを持っているんですけど。例えば国民年金は財源の3分の1が昔は税金だったんですけど、今は2分の1になっていて、いつの間にか税負担がどんどん拡大している。あと困窮者自立支援法だってほんの一歩ですけども、あそこから始まって、生活保護が削られちゃってますけども、それをしないで両輪でしっかり運用できれば悪くはない。さらには最低保障年金みたいなものを作って、無年金者を生まないようにしたり。求職者支援制度とか、児童手当とか、もちろん生活保護とか、運用次第でポテンシャルの高い制度はたくさんあります。そういう制度で穴を埋めていくうちに気が付いたらけっきょくあらゆる生活困窮が制度で保障されるようになっているという仕組みが出来上がってしまうのではないかと楽観的に考えているんですけれども。

 

杉本:完全なるベーシックインカムというところまで行かなくても、貧困まで転落しないような形のもの、社会手当的な部分を確固なものとしてさらに拡充していけば、何とかなるのではないかと。ただまぁ政治の展望なんですけど。今の自民党の政治って、すごく縁故主義的だし、自己中心的な感じがして。本当に社会政策だとか社会保障制度を真面目に考えている政治家の内閣なんだろうか?って思ってしまって。これは続かないというふうに、概ね見通しがたつのであればいいんですけど。でも先生が先ほどおっしゃったような方法で行かざるを得ないというふうなことになりますかね。

 

金子:そんなふうに思っています。行かざるを得ないという感じでしょうか。

 

 

 

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*ワークフェアー勤労福祉制度(失業者が社会保障費の受給のため、地域社会の仕事に従事するか、再就職訓練を受けるかしなければならない制度)。