心理学と宗教(中)安岡譽さん(精神分析医)

― 現代の、この日本の社会に住んでいると、純粋な信仰者というのはすごくわかりにくいですね。

 

安岡 いや、そうでもないのですよ。一神教が生まれた風土を考えてみてください。砂漠の世界ではないですか。日本にしろ中国にしろ樹木が生え、四季があり、草木も生えて川もあって海もある。ね?そういう自然が豊穣なところではいろんな自然のものが自然と神様になるわけです。砂漠の中で何が神になるか。砂が神になれますか?

 

― (笑)。

 

安岡 砂漠の中では砂か風しかない。そういうものでは人間の無力さを克服できない。だからこそ、もう「絶対的なもの」を求めないと、砂漠風土ではやっていけないと。こうなると、もう強大な力を持った一つの神様しか選択できない。こういう心理状況が働いたと考えたほうが理解し易いんじゃないでしょうか。

 だから砂漠の神が一神教。自然の豊かなものがあるところでは多神教が普通になる。そんな風土が生み出したものでもあるんです。

 

― ポリネシアとか、南島の島々なんかでもそうですよね、うん。

 

安岡 それぞれの国の自然状況においてのそれぞれの神がいるはずです。ですから、みんな当たり前の原点的な考え方を忘れちゃってるわけですよ。そして自分の都合の良いように世界を支配しようとする野心の下では政教が一致して、そして自分の信じる神だけをみんなに信じさせようとします。押しつけようとする。それは実は経済的利益や政治的利益、それが一番の目標なんですけれども。

 だって、唯一神の神様も「汝、殺すなかれ」、「汝、嘘つくなかれ」、「汝、盗むなかれ」、って言う戒律をちゃんと十戒に書いているわけですからね。誰がそれをきちんと守っていますか?その点では、純粋な信仰者がいるかどうか怪しいものですね。

 ここで世界の宗教については、民族国家を超えて広がっているのがキリスト教、イスラム教、仏教の三つの宗教です。あとは特定の民族しか信じてないというのが民族宗教、と。

 

― やっぱりヒンドゥー教は民族宗教ですけど、約9億人。多いですね。

 

安岡 ええ。あとはいろいろのものがありますね。新興宗教などもね。

 で、あとは多神教と一神教の違いですね。多神教というのは東洋ではバラモン教から始まって、仏教へ、ということになりますけれどもね。で、神道を宗教というかどうかというのは難しいんですよ。

 

― いやあ~。そうですよねえ。

 

安岡 自然信仰と言ったほうが、いいでしょうね。

 そして一神教に関しては、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はエホバ、ヤハウェ。これらを最高神とする意味では兄弟宗教です。この兄弟であるが故に近親憎悪が強いところが面白い。

 

― いまでこそナチスが大変なことをやったから、もうユダヤ人を刺激してはいけないという風に完全になっていますけど、ユダヤの人々をいじめてきてるわけですよね、それまでは。ナチスの前も。

 

安岡 まあ、砂漠の国でね。絶対的な力がないとやってられないなということでエホバを神としてユダヤ教が生まれます。その中心になったのがアブラハムだと言われてますけれどもね。まあ、事実上、モーゼでしょう。そしてユダヤ教の特徴はユダヤ民族だけの特有な宗教なんです。

 

― 民族宗教ですね。

 

安岡 そう。彼らだけが救われる民族で、エリート民族という考えが基礎にある宗教なんです。

 

― なるほど。

 

安岡 霞ヶ関の官僚が東大出てエリートだと。他の大学出て来た奴はどこの馬の骨だ?って言って馬鹿にして蔑んでしまう。そういうような差別、区別をするのと全く変わらないと言うことですね。

いまのイスラエルがそういう発想を持っているからこそ、ユダヤ教の政治的な意味での恐ろしさはそこにあると言えるでしょうね。他民族、異教徒は抹殺しても良いという考えが潜んでいるからです。

 それに対してプロテストしたのがキリスト教なんですよ。神がユダヤ民族だけを助けるというのはおかしいのではないかと。他の民族も同じ人間ではないかと。民族差を超えて、神の愛をね、幅広くやるのが本来だ、って言ったら当時のユダヤ教の人々は反旗を翻した人物だ、って言ってキリストを十字架にかけたわけです。

 

― それはわかりやすい解説ですね。

 

安岡 ええ。で、その後、イスラム教はまた別の時点に出てきて。マホメットが出てきてやるわけです。でも、エホバを最高神として「アッラー」って言ってるけど、これはヤハウェのこと。エホバのことを言ってるんですよ。

 

― 同じ意味なんですね。ふ~ん。

 

安岡 そうです。だからユダヤ教、キリスト教、イスラム教は兄弟同士である。

それから聖書で言えば旧約聖書を聖典とするか、新約聖書を聖典とするか、コーランを聖典とするかの違い、ということなのだけれども。同じイスラエルのエルサレムが、まあひとつの聖地というか。イスラム教は別のところが聖地になっていますが、でも教会や何かの中心になっているところはみんな一緒なので、そこを奪い合う戦いをして、それが十字軍になったりします。まあ、十字軍も大変ひどかった。宗教的な聖地を取り戻す名目でイスラム教徒をたくさん殺して。結局、財宝を奪っていったわけです。財産を。で、教会の資金にしたわけです。まあ、その後資金の奪い合いをするキリスト教内部の喧嘩もあるんだけれど。

 

― (苦笑)。

 

安岡 だからイスラム教徒にとれば殺されるわ、財産奪われるわ。キリスト教の十字軍は泥棒、強盗に過ぎないんですよ。そこで、二千年の恨み晴らさでおくべきか、ということを強力に主張するのがイスラム原理主義。と、そういうことになるわけです。その両方が戦っているのが「文明の衝突」と呼ばれている。但し、原理主義というのはイスラムが作り出したんじゃなくて、キリスト教の中のプロテスタントが原理主義を作り出したということで、これは意外と知られてないのではないでしょうか。

 あと、日本の宗教では神道系と仏教系。神道も、まあ神道は仏教を取り入れたり、みんなごちゃまぜにしたりして、やっているわけです。それから明治以後、政教一致で「復古神道」。一時期これをやったけれども。これは当然にもポシャることになる。政教一致すると最後はポシャります。

 

― なるほどねえ。う~ん。

 

安岡 ええ。それから善悪二元論の考え方ですが、まずゾロアスター教という宗教に「良い神」と「悪い神」という考え方があって、人はどちらの選択でも出来るというんです。いいことを選ぼうとも、悪いことを選ぼうとも。で、死んだ後にどちらを多く選んだかによって善の方を多く選んだ人は天国に行って、悪の多いのは地獄に行って、中途半端な人は「浄罪界」という罪を浄める世界でもう一度顔を洗って出直してこい、と。こういうような善悪の二元論みたいなものがゾロアスター教の特徴としてあるわけで、こういう考え方が後に一神教の中に取り入れられていったわけです。

 

― ゾロアスター教はそうするとユダヤ教の前からあったわけですね?

 

安岡 そうです。時間的にね。ゾロアスター教からユダヤ教にいく。

 

― ああ。紀元前6世紀頃に。なるほど。

 

安岡 ですから、この悪神というのが、のちのちユダヤ教やキリスト教で『悪魔』と呼ばれることになるわけです。

 

― ああ~。そういうことになるわけですねぇ。ところでゾロアスター教というのは地理的にはどこら辺にあったんでしょうね?

 

安岡 ペルシャ(現在のイラン)のほうですね。

 

― ふ~む。「拝火教」というのが、そうですか?

 

安岡 そうです。火が神様なんです。火は何でも燃やして無にすることが出来るものすごい力を持ってるでしょう?焼けば無くなってしまうし。

 

― そうですね。

 

安岡 そこにものすごい力を感じたんでしょう。 火には力がある、ということですね。それに怖い。ね?

 

― そういう考え方であることは初めて知りました。

 

安岡 ええ。ということで、じゃあ人間はまあねえ。この世の中に生まれてきて、か弱く無力のまま生まれてきて。だから強くなりたい、安心したい、出来ることならずっと生きていたい、という様々な煩悩と呼ばれる欲望を持つんだけれど。しかしまぁ、欲望を全部捨てちゃったら悩むことが無くなるというのが、これが仏教の基本的な考え。「悟り」というのは煩悩を捨てることでしょ?だから欲のない人は悩まなくて済むんです。しかし、人間というのは本来”欲たかり”だから、なかなか欲を捨てられないわけですよ。

 

― そうですよねえ。

 

安岡 ええ。で、第一に死の不安から救われたい人は自分の命が絶たれ、しかも何の意味もなく終わってしまうのだと思いたくもない。やっぱり自分が生きていた価値がある、みんなから評価されるとか、あるいは永遠の命が得たいとか言う人はそれを叶えてくれる存在を求めざるを得ないと。このような人のために宗教はたとえ肉体が死んでも魂は生き続けるよとか、死んでも極楽浄土に迎えられるよとか、神の国に迎えられるよとか、ね。中国では死者は先祖の霊となって子孫を守る。そういう風な存在として生き続けられるよ、と。神道とかもね。そうなってゆくわけです。

 そうすると、たとえ肉体が滅んでも俺は生き続けられるのだと。価値あって生き続けられるのだという幻想にとらわれるというか。しかしまあ、それで満足して「あ、それで嬉しいな」と言って、救われる人もいるでしょう。それが意味がないという風には言えないでしょうね。

 二番目は自分の人生に意味と評価を求める人。自分の人生は意味があったのか、この生き方で良かったのかについて悩む人は、人から「お前、立派だよ」とか「お前、駄目だよ」とかいろいろ言われるかもしれないけれど、周りから人間同士、褒められたって「本当かな?」「ゴマすってるだけじゃないかな?」と思うわけでしょう。しかし神さまが出てきたり仏さまが保証してくれればこんな有難いことはない、と。ということですね。

 それから欲望や煩悩やエゴによって罪を犯した人。現実にね。人間は元々不完全で理性的合理的道徳的に完全に振る舞えない。フロイトに言わせれば、人類のこころの発達段階は子どもの段階だと。大人まで成長していないと。つまり理性や合理性や道徳的にほとんど振る舞えるようにはなってないと。なぜならそう振る舞えるようになっていたら戦争もしないし、世界平和でみんな楽しくいきましょうね、助け合いながら、と、そう生きてていいはずではないですか。それが出来てないわけですから、だから人間がそう言うまだ不完全で悪の部分を持っている。これを「罪人」とイエスは呼び、親鸞は「悪人」と称したわけです。罪人は神の愛を信ずることによって救われるよというのがキリスト教で、悪人は「阿弥陀仏」の慈悲で勝手に助けてくれるよ、だから「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで助けてくれるよってことを信ずるだけで救われる、と。ですね。だから「信じることが救われる」という点ではイエスの教えと親鸞の教えは極めて似てるんですね。

 この場合、罪人というのは自分の罪を犯したと自覚している人。「まずいことしたな」とかね。悪人とは「自分は罪深い人間だな」と思っている人を指します。そういう「自覚」のある人は救われる、と。しかしまあ、自覚のない人間もいますからね。そういう人は救われない。しかし自覚ある人はやっぱり救われるべきでしょう。そこに宗教の存在意義があるんだろうと思う。やっぱり人間の悩みを救う手段というのは、ね?まだ人間が未熟であって、ある段階ではそういう宗教とかが急になくなるわけではないし。必要とされる。

 じゃあ人が救われるためにはどんな方法があるかというと、まあそれぞれの宗教によって違いますけれども、まず「戒律を守る」ということ。ユダヤ教では厳格な戒律ですね。十戒ですね。それを破ると罰せられます。許されるということがない。2番目にイスラム教。戒律は守るがたとえ破ったとしても「六信五行」(六信ーアッラー、天使、啓典、予言者、来世、予定を信じること。五行ー信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼を行うこと)。つまり私は信者ですよ~って言って、そしてまあパフォーマンスを行えば許されると。ちょっといい加減なんですよ。簡単に言えば。まあ、優しいっちゃ優しいですね。で、キリスト教は神様を信じて悔い改めれば救われると。仏教は修行を積みなさい、ですね。これが「自力本願」で、苦行・難行をする。ヒンズー教など特に解脱を目標として、ですね。身体に針を刺したり、冬に山に登ったり、苦行をする。ヒンズー教の特徴ですね。まあそういうことをやってます。それはまあ一般人には出来ないでしょうということで大乗仏教が生まれて、そんな修行しなくても簡単に念仏やなんか唱えるだけで仏さまの方が勝手に救ってくれるよ、というのが「他力本願」。だから多くの人は「ラクチンだなあ」ということで、信者が増えていったわけなんですよ。

 

(インタビュー・後半に続く)