障害に対するスティグマが強い日本社会

 

関水:日本の場合は極端に、精神障害という風に認定される対象を絞り込んでいる。だからこそ、精神障害っていう言葉に対するハードルがものすごく高い。

 

杉本:ほう~。

 

関水:「普通」と「普通じゃない」、そういう二分法をやっちゃってるんじゃないかなと思うんですけど。OECD(経済協力開発機構)のGDPに対する障害への支出の比などを見ると圧倒的に日本はすごく支出が低いんですよね。本当に下から何番目とかそんな位置です。

 

杉本:この本の第二章にもデータが記述されてますけど、日本より下にあるのは韓国、トルコ、メキシコぐらいですね。

 

関水:そうですね。

 

杉本:チリよりも低いという。

 

関水:ええ。そういう意味で障害ということに対して、ものすごくスティグマが強い社会なんです。

 

杉本:やっぱり支出額と比例して恥の意識というか、スティグマって強まるもんなんでしょうか?

 

関水:そうだと思いますね。結局「障害って何なのか?」って話なんですよね。実際のところ、障害の定義ってすごく難しいところはあるんです。それこそ社会福祉学の分野とか、社会保障の研究の分野では色々な議論がありますけど。まずそこでは「主観的な判断」と「客観的な判断」というのがありまして。

 

杉本:ええ。

 

関水:2004年のOECDの報告書では、例えばOECD20か国平均でみると、人口の14%ぐらいの人が自分を障害者だと回答していて、一番高いスウェーデンだと20%を超えている。

 

杉本:ああ、主観的には。へえ~。

 

関水:そういう意味でも障害を持つということが本当に身近なことであるというか、もっとハードルが低いし、それに対する給付があるという仕組みになっています。たとえば、スウェーデンでは、稼得能力、つまり実際にお金を稼ぐ能力が阻害されているかどうかというところを基準に給付するのに対して、日本では医師による機能障害(日常生活能力が制限される度合い)の診断に基づいて給付が決まる。給付の基準が日本は厳しいんですよね。これは障害給付の総額に如実に表れている。だからそういう状況が、家族にとってひきこもりって言葉を必要とさせていると言えると思う。

 

 

 

社会給付をプラグマティックに捉える

 

杉本:ちょっとこれは日本人のものすごい障害観があるから。とても難しい質問になっちゃうですけど、じゃあ、ひきこもりの人ももっと楽に障害として、自分をとらえて生活できるようになった方がいいという風に言えるってことになりますか?

 

関水:そういう風に言っちゃうと、すごく難しい面もありますが…。

 

杉本:()難しいんですよね。すごく、日本人にとってみるとスティグマ、恥の意識が強いので。

 

関水:そうなんですよね。既にスティグマ化されているので。ひきこもりは障害者だ、みたいな言い方自体がすごくひきこもりの人たちのプライドを傷つけることになる。ですからすごく難しいんですけど。

 

杉本:ええ、ええ。

 

関水:でも、そこは勝山(実)さんなんかは、そこら辺もっとプラグマティックにとらえていて、自分が生き延びるために利用できるものは何でも利用すればいいんだっていうスタンスですよね。

 

杉本:先日お話ししたときは正にそれがスタンスでした。

 

関水:そこに一つの、まあ方向性というものがあるのかなと思うんですけど。

 

杉本:そうかあ~。

 

関水:自分の人生のために何が必要なのか?っていう視点で利用できる仕組みということで。でも、本当に日本だとスティグマが強すぎるので、障害という言葉は使いづらいですけど。

 

杉本:それこそベーシックインカムをやっちゃうということになれば話は別ですけども。一挙にそこまで飛躍できない以上は、本当に難しい。仮に自分自身も、ならば本当に心底、身も心もひきこもりになって、という風になっちゃいかねない。

 

関水:うん。

 

杉本:そういう難しさはありますよね。

 

関水:そうですよね。

 

杉本:同時に別の角度でいくと、産業構造の変化などで会社も潰れる、不景気にもなる、職に就けない、就職できないという。まあ、資本主義社会の中で起きる現象に関していえばね。つまり障害じゃなくても働けない人が当然出てくるわけじゃないですか?失業者という形で。そのこととの境目も難しくなっていきますよね。

 

関水:そうですね。本当に。

 

杉本:だから働く意欲があるかないかっていう基準も、僕も一応社会保険労務士の勉強で雇用保険法とかやりましたけど。「働く意思」ってありますよね。それが必要だっていうことはね。

 

関水:ええ。

 

杉本:「働く意思」っていうのも、究極的には基準がないわけでしょう(笑)。

 

関水:そうですよね。

 

杉本:「働きたいけれども、働きたくない」っていう。この両義性みたいなもの、アンビバレンツがあるわけで(笑)。それはひきこもり問題の、根本問題ともつながってくることだけど。普通の失業者の人たちは本当に働きたいだけの方にベクトルが向くエネルギッシュな人たちばかりなのかというと、どうなんだろうねえ?(笑)ていう感じがするんですけどね。なにしろ日本の場合は、かなり経済が良くて一時期は福祉元年なんて言われた1973年の、オイルショックの直前かな?田中内閣ぐらいまでは相当程度社会保障枠は広がった時期があったんだけど、中曽根政権になって日本型福祉っていう風になっちゃって。今はもっとすごいですよね。雇用保険の給付期間も減らされ続けているわけだし、そういう社会政策上の変容みたいなことの意識、ちょっと追いつかないっていうこともありますよねえ。

 

関水:そうですね。社会学的な視点からいってやっぱり障害っていうもの自体が社会的に構築されているっていう風に見ますので。例えば、産業構造が変われば当然障害の形も変わるんですよね。

 

杉本:あ~なるほどね。

 

関水:第三次産業が中心の社会だと、ある意味では対人的な能力というのが、働くことの要件になってくるので、対人関係をつくる能力の障害ってものが作られる。それが例えば発達障害という風に、「社会性の障害」とかって言われる障害。「普通」とされる社会がそれを作り出すわけですよね。

 

杉本:あ~、うんうん。なるほどね(苦笑)。

 

関水:社会学者の立場からすると障害というカテゴリーは、そういう風に社会が変われば、定義も変わるようなものだと捉えるんですけど。でもやっぱり日常の視点からすると、そこはなかなかそういう風に相対化することは難しい。

 

杉本:そうか。価値中立的に見るわけですね。

 

関水:そうですね。

 

杉本:そこは、善悪の判断にはならない?

 

関水:そうですね。「健常」とされる社会のあり方の相関物でしかない、ということなので。

 

杉本:う~ん。じゃあ変な話ですけど、社会学者の人が働けなくなったら、障害者と自己定義づけても別に問題がないということなのかな(笑)。

 

関水:そうですね(笑)。社会学者としての視点と日常生活者としての視点がどこまで合致するのか?というところがありますけど。

 

杉本:でもそこも国による差がでてくるわけですよね、結局は。

 

関水:そうですね。

 

杉本:それも社会構築的な問題なんでしょうけど。国家がどう考えているかっていう、国家といいますか、まあ、国民国家ですか。その意識ってものが障害をどうとらえるかっていうことも反映することになるんですかね。

 

関水:そうですね。障害給付に話を絞りすぎちゃったかもしれませんけど、社会保障って本来、国民すべての生活を支えるものなので、そういう意味では、ひきこもり問題に関わる社会保障制度としては、障害給付だけでなく、住宅の手当てなども大きな影響があると思います。「ハウジング・ファースト」といった言葉で最近頻繁に指摘されるようになりましたが。

 

杉本:あと教育費ですかね。特に住宅手当でしょうけれども、それがない。

 

関水:そういう政策を導入していかなくてはならないのですが、社会の基本単位が個人ではなくて家族だという想定が日本の社会保障政策の問題としてあります。

 

杉本:そうそう。それで文化圏的な話でいうと、関水さんは儒教文化圏だからということではなくて、やっぱり政策上の変容があれば、文化の話ではなくなると書かれていますよね。

 

関水:はい。

 

杉本:結論的に。第二章に関しては。

 

関水:そうですね。文化って言葉はマジックワードなんです。すごく重要な、社会学の中でも重要な言葉ではあるんですけど、色んな意味合いで使われていますし、文化って言葉で語らなくていいことまで文化で語ってしまうことがありますよね。

 

杉本:(笑)。

 

関水:ひきこもりは日本の文化に根ざしているとか言われると、もう何も言い返せないというか。

 

杉本:でも実はそうではなくって、社会保障給付が国の政策としては極めて不十分であるという、当たり前の帰結だと言えば当たり前の帰結だっていうことですかね。

 

関水:そういえるかと思います。

 

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