「内なる他者」

 

 

 

で、引き続きワロンの話で、最初その、何でしょう?「交代役割遊び」とか、そのあとに続く「一人二役遊び」みたいなこと、まあひとりごと。確かにそういう風に言われてみると子ども、幼児かな?“やってるなあ”見たいな感じはしますし、僕自身やってただろうなと思うんですけど。そこからこう、「内なる他者」というものが生まれるという。自分に付随して。自分の中に他者性みたいなものがそこから発生する、みたいな話がワロンの話には出てくる。そこらあたりの話を伺えればと思うんですけど。けっこう微妙な、「うんうん」と思いつつも冷静に考えるとなぜそうなるのかわかりにくいところもありまして(笑)。直接先生に伺えればと。

 

 

 

川田:そうですね。そのへんはさっきご紹介した加藤義信さんの本の中でも触れられていたような記憶もある。私もあまりそれほど深くそれを考えたことはないんですけども。

 

 

 

いや、たしかにね。村澤先生がご本でひきこもりを論ずる際にけっこう「内なる他者」という言葉を普通に多発されていたんですよね。

 

 

 

川田:ああ~、なるほど。

 

 

 

村澤先生の本を1年ぐらい先生を招いて一緒に読書会やったときがあるんです。あるNPOで毎月1回やってた時期があるんですけど、その時に聞いたんですよ。「内なる他者」ってフロイトが言う「超自我」というものとどこか違いがあるんですか?って。まあヨーロッパ大陸的な社会学や心理学のほうの理解ですよね。「内なる他者」という言葉は。

 

 

 

川田:そうですね。フロイトはちょっとわからないので、通り一遍のことしか言えないんですけど、少なくともフランス人であるワロンにとっては、フランス革命以来の、これは加藤義信さんが書いているんですけど、やはりフランス人にとって「個人とは何か」っていう問い。個別固有の人格を備えた個人というものが形成されるというのはどういうことか。

 

その問いはフランス人権宣言以来のひとつの問いなんだ、って言うんですよ。やはり「個」というもの。個の自由とか、自然権としての個の自由とかを立てるわけですけれど、じゃあその「個」はどこからやってくるのか?という。もちろん神との、絶対的な神との緊張関係というのがあるんですけど、一方、人間の発達というのを考えたときにそれはいつか?例えばこの“おぎゃあ”と生まれた赤ん坊に個別の人格というものはあるのか。何か責任がとれる、「自由と責任」の主体たるものがあるのか。やはりすぐそうとは言えないと。どこかで自由と責任の主体たる個というものが発生するのだと。じゃあそれはいつどのように発生するのかということが、やっぱりワロンとか、当時のフランスの研究者たちのひとつの問いだったと思うんですよ。これはパラドックス(逆説)がありまして。やはりその「自由と責任」の主体である「個」というものがありつつ、一方では社会的関係の中で個はある。だからこの両軸を持っている。どこまでも個人が優先されるという部分と、とはいえ社会の中で生きざるを得ないし、社会の中で何かしら役割を果たしていくという。この二つの軸を両立させ得るような論理はどういう風に立てられるのか?ということがおそらくワロンの中にあったと思うんですね。そこが個になりながら、しかし内側に他者を育てていくという、その何か二重性をまとっていくということがおそらく理論的に要請されたことだと思うんですね。ですから仮説のほうが先にあると思います。

 

 

 

なるほど、そうですか。

 

 

 

川田:個になりながら、他者をはらむという。これはどういうことか。で、ワロンはまあ、共産党員でもあったので、唯物論者でもあって、非常に科学的実証主義者なんですね。

 

 

 

ああ、はい。

 

 

 

川田:そういう側面もあったんです。医者でもあったということで。ですから必ず物質的具体的レベルでの実証というものを自分にも課してたんですね。それは統計的実験的でないにしても、ちゃんと観察や臨床とか、そういう経験的事実から理論を組み立てることを自分に課していたと思うんです。で、やっぱりワロン自身は先ほどお話したみたいに自分自身の身近に子どもたちの健康な発達を観察して記録する環境があまりなかったんじゃないかと考えられるので、おそらくそれでワロンはいろんな人たちが観察した資料というものを集めながら、何というか固有な個になりながら、社会的存在でもあるという。この二重性を両立させ得るような、これが共に育っていくようなことを証明するような現象はないかということをいろいろ探っていったのだと思うんですね。その中でおそらく子どもの「交代遊び」であるとか、それが交代遊びとして相互にやりとりするような遊びが、やがてひとりの子どもの中で「ひとりごと」という形で対話的様式をとり、やがてその対話的様式も徐々に頻度としては無くなって、それは思考として、思考の中で対話的様式をとるという。これは実はヴィゴツキーという人の発達論とほぼ同じモデルなんです。

 

 

 

ああ、そうなんですか。

 

 

 

川田:ヴィゴツキーは、「内なる他者」というような、ある種フランス語的な文学的な表現は使わないんですけれども、ヴィゴツキーは最初子どもは「外言」。外のことばと書いて外言というんですけれども、これは他者とのコミュニケーションの言語ですね。この外言がやがて内面化されて、「内言」になると。その外言が内言になる過程において、「外内言」という外言と内言をつなぐような現象があって。それが子どもの「ひとりごと」だと言う。なので彼は子どものひとりごとの分析を非常に熱心に行っている。ヴィゴツキーもそういうことをしていました。これはワロンにはなかった着眼点で、やっぱりヴィゴツキーもソビエトの研究者であって、いわゆる共同体主義的な人間観を持っていたと思うので、やはりその「個」が確立する過程にあって社会的なものが子どもの中に内面化されていくそのプロセス。まさにそれが形成される局面を、映し出すような現象を掴みだすような実験をどうやったらできるか?ということをずっと考えていた。そこで、「ひとりごと」にすごく注目してるんですね。その意味ではフロイトの超自我、自我、イドのモデルは非常に物語性が強いというか、非常に理論的には妄想的な世界が強いと思うんですけど、ワロンとかヴィゴツキーというのはもう、観察できる対象との突き合せをやってきた。

 

 

 

そうなんですね。ですからその、まあ超自我というのはいわば内側、自分の内面に宿る倫理的な「検閲官」みたいな存在ですよね。でもそれって自分はフロイトをきちんと勉強してないから知らないだけかもしれませんけど、いったい、いつどこからそれが発生するんだろう?ということが正直わからなかったんですよ。で、初めてこのワロンさんの本を読んだときに、ああもしかしたら、「交代遊び」とか、あと「一人二役遊び」とか、いまヴィゴツキーの話でひとりごとの研究とかされている話を聞いて、もしかしたらその後、倫理規範みたいなものを大人に対する観察などで吸収して、結果としてそういう倫理的検閲官みたいな存在が自分の中にも生じるのかなあ?とぼんやり思ったんですよね。そこらあたりはフロイトは特に超自我の起源がどこからあるのかということは科学的な観察実証はされていない気がしたので、「あ、なるほど」と思った感じがしたんですよ。

 

 

 

川田:フロイトによる超自我形成というのは4歳から5歳のところなんですよね。

 

 

 

そうなんですか。

 

 

 

川田:年齢的に言うとですね。で、ヴィゴツキーとかワロンとかがひとりごと、一人二役的なひとりごとというのは、2歳なんです。だから2歳以上の差があって。発達的に違うものを見ていると思います。で、フロイトの場合にやっぱりはずしてはならないのは「エディプス・コンプレックス」という彼の枠組みがあります。この三角形。具体的には父親、母親、自分ですね。で、基本的に精神分析の発達理論は性の問題を基盤に据えていますね。しかもフロイトの初期のモデルというのは基本的に「男児のモデル」ですね。

 

 

 

ああ~。そういわれてみると。

 

 

 

川田:男児が母親に性的な愛情を寄せてしまう。

 

 

 

ええ。そのことによって父親が。

 

 

 

川田:父親に去勢される。それを逃れるために父親に同一化する。父親自身に自分をはめる、と。それによって超自我が形成される。まあこれも物語ですけど。なので原点に戻れば「超自我」というのは”男児の父親役割の取り込み”という、まあそういうことになると思うんですよね。で、「女の子はどうなんだ?」批判があったので、「エレクトラ・コンプレックス」という女児版を作ってペニス羨望とかを持ち出す。そのあたりフロイトは批判されたりするわけですけど。でも基本的には「自分と、もう二人」がという中で、こっちをとろうとするとこっちにやられるという。そういう緊張関係の中でその何か片一方を取り込むことによって、二重化することによってもうひとりとコミュニケーションをとるというような、そういう三角形を折りたたむようなモデルをフロイトはたててるんだと思います。これは発達心理学の領域で言うと、「心の理論」というもうひとつ別の研究領域がありまして、いまここに三人いるとします。私と杉本さんが話しているところで、Bさんが私と杉本さんが話を聞いているんだけれども、その話をBさんがどういう風に受けとめているだろうと考えながら杉本さんとお話しすると。これ、三人の関係だとありえますよね。で、これは「空気が読めない」とか何かそんな話にもつながってったりしますよね。

 

 

 

基本的にふたりだけで話してるという状況ではないですよね。何らかの形で他者の目線を感じながら話す。

 

 

 

川田:そうです。その三角形の。それが仮に二人だけだとしてもやっぱり誰かを。

 

 

 

感じながら。それはありますよね。

 

 

 

川田:だから常に最小単位としては三角形として物を考えながら対話するという。で、幼児がこの構造で思考がまわって来るのは4歳くらいからなんですよね。

 

 

 

ああ、そうなんですか。

 

 

 

川田:ええ。これは実験的に確かめられていて。だからこんにちの発達心理学の研究で言うと4歳5歳のフロイトの超自我の話というのは、「心の理論」研究とよばれる研究領域で研究されていることと関係しているように思うんです。ただ精神分析の場合は性愛の問題というのが入ってくるので、認知的な話だけではないので、単純に同一視することはできないんですけれども。まあ、発達心理学的にはそういうことも言えるかなあと。

 

 

 

だから面白いなあと思うんですけど、例えば二人で話していても仰るとおり、第三者がいなくても見えない第三者を意識してるということが4歳の頃にすでに入る。ある意味では「空気を読む」というのはその現象なのかもしれないんですけど、それはどういう機制、モードから発生するんでしょうね。

 

 

 

川田:どういうモードから発生するんでしょうねえ?

 

 

 

ねえ。私がいつも考えるひきこもり云々という所からいうと(苦笑)。まあ、村澤先生も「内なる他者」ということをご本で頻発されてるんですが、それは厳しい、自分にとって自罰的なものとして「内なる他者」がある。でも健康的な人にとってもそれほど過剰に自罰的ではない他者性みたいなものはやっぱり持ってるわけですよね。他者性を持たない人はそういないはずなので、これは何でしょう?やはり社会性の芽生えは4歳頃に起きる、と単純に考えるとなっちゃうんでしょうかねえ。

 

 

 

川田:うん。まあいろんな側面がありますね。当然ですけども、2つのことを同時に参照しながら物を考えるということはそれだけ認知的な負荷は高くかかるわけですからね。

 

 

 

うんうん。そうですね。

 

 

 

川田:そういう意味では、もういまの研究では前頭葉の発達の観点からも議論されていますし、脳の機能的な部分も当然あると思いますね。

 

 

 

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※村澤先生のご本―村澤和多里ほか『ポストモラトリアム時代の若者たちー社会的排除を超えて・第三章』(世界思想社)